大久保さんの言う<エネルギーの質>につながるかどうか、わからないけれど、こういう体験があったので、お話しますね。
私は、アメリカ西部に友人の家があって、時々遊びに行くんです。
そこは、空がひろくて、大気が澄んでいて、、、
月がない夜などは、満天の星が舞い降りてくるような、、、
星の輝きがすごいの、、、
ある時、夜空を眺めていて、いつになく感動していた、、、
最初、星の美しさに感動していると思っていた、、、
だけど、突然気づいたんです、、、
星ではなく、その背景の真っ暗な闇に感動しているのだと、、、
星と星のあいだにある空の暗さは底なしの暗さなんです、、、
真っ暗な底知れない形のないそれが、自分にふれたというか、自分を包みこんだというか、、、
そして、涙がとまらなくなってしまって、ものすごい感動の奔流があった、、、
そういう体験をした後、後遺症があって、サラダを見てもそうなってしまって、、、
ランチでサラダをみて泣いているの(笑)
いったいどうしたのという感じで、、、
しばらくして、ルパートの1週間の瞑想セッションに参加していたときのこと、、、
身体に組み込まれたものを開放することをやっていたんです。
すると、からだの外にでて、というか、からだがなくなってしまって、ある無限の存在、ホールネス(全一性)に包まれたようになった、、、
その時の感覚は、、、表現のしようがないのだけど、大きな悲しさだったの、、、
恋人のいるところにようやく帰ってきて、帰ってきておきながら、なぜもっと早く帰ってこなかったのかと悔いるような悲しさ、、、
でも同時に、また出ていくことがわかっているのね、、、
心底泣かざるおえない悲しさ、、、
それが、私の体験が行きついたところの理解です。
それは、とても深淵な世界で畏敬の念を覚えますね。
故郷に帰るためには、故郷から出ていかなければならない、、、
ホールネス(全一性)を体験するためには、そこから離脱しなければならない、、、ほんとは、ホールネスから離れることなどできないですが、そう感じることはできる、、、
だから、魂の表現の本質の一面は、分離の悲しさなのだと思います。
だからこそ、帰郷の喜びを体験できる、、、
いわゆる<不二>の体験ですね。
このあいだも、<不二>と言ってらしたけど、、、<不二>という言葉について説明してください。
私は理解できているわけではなくて、解釈しているだけですが、、、
<不二>は、自分の意識を保ったまま、ホールネスを体験するということではないですかね、、、
自分の意識というのは分離であり個別であり、ホールネスというのは融合であり全体であり、、、ということは、<分離と融合>または<個別と全体>が同時に成立するのが、<不二>なんですね。
<不二>は、<2元>と<非2元>の両者を含み、かつ両者を超えるわけです。
合理的な観点からは矛盾した概念ですが、体験的には矛盾していない、、、
人間の逆説的な在りかたをあらわしている、、、
禅では、この境地へのアプローチを只管打坐(しかんたざ)とかいいますね、、、梵我一如への道ですね。
そして、この<不二>を体験するのは、<アウェアネス>のセンターを通じてです。
ですから、まずは<アウェアネス>に目覚めていなければならない、、、
それが、第一の扉です。
アウェアネスが目覚めると、<観照者>が現れる。
観照者というのは、観察者とは違うの?
こういう話の文脈のなかでは、観察と観照を区別しています。
日常会話では同じように使ってますが、、、
観察は、物質や身体や心などの客体に対する注意です。
観照は、その注意に対する注意、つまりアウェアネスのセンターことですね。
観察は分析的な目ですが、観照は全体を見る目です。
観察の場合、客体が個々に分離し、拡散し、観察者はそのなかに埋没してしまうことがある。
一方、観照の場合、個々の客体は融合し一体化し、観照者はそれを包み込むような感じになる。
ヴィパッサナ−瞑想にも、この二つの傾向が混在しているのではないでしょうか、、、
観察が観照よりも強く働くと、さきほど言われた、閉じ込められた感覚になるのではないのかなと、、、
観照者が現れることによって、それまでの自分つまり客体的自己が、流れゆく雲のようなものになる、、、
すると、流れゆく雲の背景に青空が広がっていることに気づく、、、
それまで、雲に同一化していた自分が、雲から引き離されることで、それを見ている気づきに対する気づき、つまり観照者が見出され、これに呼応するようにして、雲の背景に青空が広がっているのに気づく、、、
青空というのは、雲と観照者の両者を成り立たせている土台のようなものであり、ホールネス(全一性)の反映ですね。
なみさんが体験された漆黒の闇がこれではないかと思います。
鏡のたとえで言うと、どんなものが映ろうと、鏡それ自体は無垢で変わらない。
映るものによって、鏡が汚されることはないわけです。
この青空に(または鏡に)、アウェアネスのまなざしが吸い込まれていく、、、
観照者がホールネスに沈みこんでいく、、、
そこには、静寂と平安がある。
脱我や無我と称される境地でしょう。
只管打坐(しかんたざ)の極致であり、これが<不二>の世界です。
なみさんは、それを根源的な悲しみと表現された。
おそらく、そこには、その悲しみとともに、根源的な平和も、根源的な喜びも、根源的な自由も、一緒に存在していて、表現されるのを待っている、、、
<不二>の世界でも、ホールネスの体験がつくる個性というものがあって、それが表れてくる、、、
それは、透明な光が、さまざまな角度のこわれかたで、さまざまな色が生じるようなもの、、、
そんなふうに思います。
・・・・・ <観照者> ⇒ 【註1】
まなざしが青空に吸い込まれ、観照者がホールネスに沈みこむと、創造の源泉につながる、、、
創造の源泉でエネルギーに触れる、、、そこで<エラン>(はずみ)を感じる、、、それは熱となる、、、
そのエネルギー(エランと熱)に同化して、観照者は再び不二から出て、外に向かう、、、
しかし、その時観照者は、すでに観照者ではなく、観照者を超えていこうとする、、、
それは、客体にエネルギーを注ぎこみ、、、熱を吹きこむ、、、
すると、客体は新たな色彩を帯びる、、、
なみさんの言われるように、客体は、主体の表現となる、、、
以前も客体は表現に違いなかったが、無意識の表現だった、、、
しかし、今回の客体は、主体の意識的な表現となる、、、
そして、それさえも超えて、創造の源泉からの直接的な表現となる、、、
それが、ハートの思想であり、愛の流出であると言われています。
そのお話は、琴線にふれるものがあるようです。
ただ、主語となる言葉がいろいろ違っていても、本来はすべてアウェアネスのことですね、、、
そうだと思います。
ただ、<アウェアネスの深さの度合>で、それを表現する言葉が変わってくるのだと思います。
<観照者><不二><ハート>という、このアウェアネスの3つの側面について、晩年のベルクソンがこんなふうに言ってるんです。
仏教とキリスト教神秘主義とを比較して、仏教は<観照者>と<不二>でとどまったが、キリスト教神秘主義は、創造の源泉と一体化し、<ハート>の愛を顕現した、、、
仏教は、ハートにおいて、熱とエランに欠けていた、、、と、すこし批判的な見方をしていました。
実際は、仏教も<観照者>や<不二>でとどまっていたわけではないですが、ベルクソンにしてみると、不徹底だという思いがあったのでしょう。
そして、人類の未来は、この熱とエランに満ちた<ハート>にかかっているようなことを言っていました。
・・・・・ <アウェアネスの深さの度合い> ⇒ 【註2】
ラマナマハラシも同じですね。
<ハート>を一番重視していました。
なみさんが、日本に帰国しようと思ったのは、自分が体験したすばらしいプログラムを、日本の女性と分かち合いたいと思ったからだと仰っていたでしょう。
彼女たちが幸せを実現できるよう、それに貢献したいと考えてらした。
それは、このハートから来る作用のように感じますね。
そう言えば、子どものころ、両親や他の人を喜ばせようと、歌を歌ったり、お話をしたり、といろんなことをやっていたことを思い出しましたが、いまだに、そのころと同じことをやっているのかもしれません(笑)
SQプログラムも、同じ思いなんでしょう。
ご自分の体験を通じて理解された<アウェアネス>への気づきを共有したいという、、、
そうです。
それが、私の希いであり、これからの仕事になります。
<アウェアネス>というものに、興味を持ってくれる人が増えるといいのですが、、、
最初のてがかりは、、、?
【註1】 <観照者>
観照者は虚に在り、不動であり、自由を顕現する。
水平軸(此岸)と垂直軸(彼岸)が交差するところ、、、座標軸の交点(ゼロ点)。
見られるもの(世界)と見るもの(身体)が統合化された時に生まれる、非身体的目<まなざし>、、、この非身体的目<まなざし>は、統合化された<世界身体>を包みこむ。
禅観・止観の観。
アウェアネスのセンター。
宮本武蔵『五輪書』の<観の目強く見の目弱く>の観。
世阿弥『花鏡』の<離見の見>。
霊的自我の前線基地。
【註2】 <アウェアネスの深さの度合い>
アウェアネス(気づき)は、本対談では重要なキーワードになっていますが、理解するのが難しい言葉です。
しかし、このリアリティはとてもシンプルなものなので、最初の接触を感得できれば、その世界を深めることができます。
アウェアネスは、広義の意味では、気づきのすべてを包含します。
気づかれているものと気づいているもののすべてです。
したがって、<わたし>が体験しているものすべてと言っていいでしょう。
狭義の意味では、気づきに対する気づきを言います。
気づいているものは誰なのかという気づきです。
これを、<アウェアネスのセンター>と言うこともあります。
つまりは、<観照者>のことです。(→【註1】観照者をご覧ください)
このアウェアネスのセンターをゼロ点として、客体(表現されるもの)に向かう方向と、主体の源泉(表現するもの)に向かう方向の各々に、<アウェアネスの深さの度合>を見ることになります。
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