随分以前から、慢性C型肝炎などを患っていて、しばらく体調が思わしくなかったんです。
そして、2009年初めの血液検査で、鉄分が減り貧血になっているのがわかった。
血便も3+でした。
その調査の一環として、胃カメラ検査をすることになったのですが、検査中に胃の入り口に静脈瘤が見つかり、それが検査中に破裂して危うく死にかけました。
それから、その年の9月に大腸のカメラ検査を受けたのですが、直腸がんが見つかりました。
慢性C型肝炎があり、静脈瘤があり、がんがあり、食道には<すだれ>(血管がすだれ状になってしまう様子のこと)ができ始めている、というからだの状態だったんです。
直腸がんは手術することになり、宣告を受けてから3ヶ月後の12月に予定しました。
手術までの期間をおいたのは、瞑想や内面の作業を続けることで、がんが消えるかどうかを試してみたかったのです。
その間に、がんはあまり進行しないだろうと予測しての決意でした。
結局、がんは消えず、12月に手術しましたが、、、
でも、手術後の回復力の早さに、病院では驚いていました。
瞑想や内面の作業が回復力を強めたのだと思っています。
しかし、その後も、大きな事故に見舞われたり、腸閉塞になったりと、からだの故障が続きました。
大病が重なったのですね。
死の恐怖にも直面されたのですか?
もちろん、死のおそろしさも体験しました。
病院にいて、手術とかなんとかの時はまだいいんです。
仕事が明確なので、疑いもないですから、、、
そういうことが過ぎ去って、その後に那須で療養しているときに、希望がなくなってしまった、、、
なにをやっても良くならない、、、お先真っ暗、、、という気分になってしまったんです。
気がついたら、ウツになっていた、、、
それは、病気のせいで?
正確に言うと、病気に関する自分の<解釈>のせいで、、、
それでどうされました?
いつものように自己探求していました。
死についても、、、
死ぬこと自体は、眠るのと同じ、、、
死にとってやさしくないのは、ああでもない・こうでもないと想像する、そのことが恐ろしさを招く、、、
そういう探究の果てに、、、
治癒して良くなるか、それとも安心して死ねるか、、、
そのどちらでもいい、、、という考えが浮かびました。
すると変わりました。
抵抗しなくなって、希望がでてきたのです。
希望のパワーね、、、目の前が開き、トンネルから出て光の世界が開いたという感じ、、、
死がまったくこわくなくなりました。
こまかな憂いのようなものはありましたよ、、、
自分のからだが動けなくなったらどうしようとか、、、
でも、そういうのはただのストーリーで、たいした問題ではない、、、
その体験が大きな節目になっている?
ものすごく大きな節目になってる。
そして、希望がでてきた後になってから、、、ようやく、、、
どうして、こんなに身体の故障が続いたのだろう、、、
なにが、これをもたらしたのか、、、
そういう探求ができるようになった。
その探求でなにがわかったのですか?
続いていた病気や事故の隠された要因がわかりました。
それは、なんですか?
<あだ討ち>です。
あだ討ち?
ええ。
1998年に、それまで社長をしていた会社を辞めて、MITに行って経営学の勉強をしたことや、1999年に日本に再帰国して、<個の発展>プログラムの活動をはじめたことを話しましたね。
日本に再帰国した理由を、さっきは、国際社会における日本や日本人の在りかたというテーマを追求して、日本社会に貢献したいからと言いましたが、それは表向き、表層意識上の理由で、公言するには危ういような話ですが、正直なところ、内実はどうしてまた日本に行くのかということについては、漠(ばく)としていて、よくわかっていなかったんです。
10年以上経ってから、病気のおかげで、ようやくわかったんです。
それが、<あだ討ち>だったんです。
ここからデフォルトコンテクストとそのパワーの発見につながっていきました。
よく意味がわからないんですが、、、あだ討ちというのはなんですか?
すこしわかりづらいかもしれないですね。
前の会社のオーナーに対して、<あだ討ち>の感情が潜在心理として秘められていたことに気づいたということです。
そして、そのために生きていた、、、と。
1985年に日本に帰国して、以来13年間かけて、ゼロからすべてを築きあげてきました。
自分のことは省みずに、それこそ命がけで働いてきたんです。
オーナーの意向にそって、社長としてすべてとりしきり、責任をすべて自分が担い、会社の発展に全面的に貢献したんですね。
ビジネスとして成功したと思っていました。
それが、突然、私の知らないところで会社が売却されてしまったんです。
ショックだったのは、私の貢献や実績に対して、なんら敬意を払わずに、取るに足らないものとして処置されたふうに思ったからです。
それで、やむおえず辞めたのですが、そういう仕打ちが、どうしても納得できなかった。
<仕打ち>と言うほど、そのことの犠牲者になっていましたね。
その抑圧されていた感情<あだ討ち>のために生きることが、病気や事故を生んでいた、、、ということに気づいたわけです。
これが、デフォルトコンテクストだったと、、、
その<あだ討ち>という言葉で、なみさんとしては、パズルのピースがはまるような感じがあった?
そうです。
希望が見えてきてから、そのことにようやく気づいた。
日本に帰ってきて、10年以上<あだ討ち>をやっていたということに、、、
そのことがわかったので、『病は気から』という本を書かれたんですか?
そういう抑圧された感情が病気を生むということで、、、
そうではなく、『病は気から』は、もっと前に書くのを決めていました。
病気を体験する前から、、、
この本には、病気と意識との関係が具体的に書かれているので、とてもユニークな内容だと感じました。
あだ討ちの話の続きは、後でお聞きしたいので、その前に、これがどういう本なのか、紹介していただけますか。
わかりました。
一言でいうと、<身体>と<気>との関係についての本です。
一般の医学のように、身体だけを扱うことは、空気に注意を払わなくて、肺だけに注意を払っているようなものだ、、、ということね。
身体の健康について、、病気からの回復について、、、身体がどうしてこのような病を招いたかについて、、、そういうことに興味があったなら、<身体>と<気>との関係を知る必要がある、、、
難しい意味の<気>ではなくて、「気が変わる」とか、「やる気がしない」とか、日常的に使っている<気>へのアプローチのことね。
それについての具体的な理解が進むと、身体がひどくなるまえに、根っこの処置をほどこすことができるし、予防医学にもなるという、、、そういう本です。
単なる知識ではなくて、とても実践的な本ですね。
一遍読んで終わりというのではなくて、座右の書として、なにか気になったり気づいたりしたら、頁をめくってみるというふうに使うといいなと思いました。
でも、なみさんは西洋医学の医師としてのキャリアも長いので、<病は気から>と言い切るのは勇気がいったのでは、、、
病気については、病原体や環境状態、汚染、生活習慣、免疫力、遺伝などに注意を向けるのが、正統派の医学とされていますね。
<気>のようなことは、科学的でない、現実的でない、時代遅れ、迷信的だと思われるでしょう。
西洋的な訓練を受けた医者が、注意を払うに値しないことだとされています。
しかし、それでは、病気に対する根本的な理解は得られないし、本来の医学も進歩しないと思ってます。
これを読むと、病を他人事にできなくなりますね。
病の原因というのは、外からふりかかってくるのではなく、自分のなかの<気>であるし、、、
病を治癒するのも、他人(医師など)でも薬でもなく、<気>も含めた自分の内なる治癒力ですから、、、
そういう意味でも、本書のなかに<ワークシート>がついているのが、親切ですね。
知識として学んだことを、実際にワークシートでやってみることができる。
特に体調不良のときに、自分の身体で試すことで、<身体>と<気>との関係についての理解を深めることができますね。
ワークシートは、私自身をモルモットにして、実験実証したものです。
実用性がある作業であることは、臨床調査済みです(笑)
大切なポイントを言うと、ワークはマインド(気)や身体を、自分の思い通りにできるようにするものではないということ、、、
ワークは、<気>のパワーを知って、自分の感情や感覚を素直にそのまま感じられるようにするためのもの、、、
意識に自動的に上ってくるさまざまな思いをを知ること、、、
そうすることで、今この状態にある身体の因を理解するためのものなんです。
そうすると、マイナスの<気>が解消されて、<気>がゼロ状態になれるのです。
ゼロ状態というのは、マイナスはマイナスで良し、身体はこのからだで良し、といえる状態のことです。
ゼロになったら、プラスは思いがけない形でやってきます。
本来の愛や信頼やその他のプラス状態が自然とあらわになり、病が治癒されるプラスの場が生まれてくる、、、
雲が切れれば、青空や太陽の輝きが、顔をだすのと同じです。
ところが、それを期待してワークをやってもうまくいきません。
期待すること自体、何かが思い通りになる、すなわち良くなれるという期待があるからでしょうね。
本書のワークシートとは別に、こういうこともやってみると良いと思います。
それは、<許す>ということです。
私たちは、日々なにかにつけて、自分を責めていますが、そのたびに<許すよ>と自分に言うのです。
そうすると、何とかしようとがんばってきた力が抜けて、<気>も<身体>もほぐれていきます。
なおそうと努力しないで、<このままで良し>としていいんだと感じれます。
それにともなって、他人のことも許せるようになります。
自分を許すということは、このままの自分で良しということです。
自分を許せると、不安や恐れは減るでしょう。
すると、人に対して寛大になれます。
そうなれた自分を好ましく思えます。
自然と喜びがわいてくるでしょう。
好循環ができてくるのです。
愛と安らぎと幸福は健康のもとですね。
なるほど、、、
もう一度整理して言いますね。
病は<気>がはじまりです。
<気>はからだと直結し、からだが<気>の存在場所です。
その<気>がマイナスだと、からだは病気でそのマイナスを表現します。
プラスだと病気は存在できません。
しかし、自分の意思でプラスにすることはできないんです。
自分ができることは、中性(ゼロ)にすること、、、
そのためのワークをこの本で紹介しました。
そして、終局的になにがマイナスを方向転換させるのかというと、現状にサレンダーすること、
つまり、現状に逆らわない、抵抗しない、変えようとしない、あるがままを受け入れる、、、
許すことは受け入れることの第一歩かもしれません。
そうすることだと、私自身、身をもって経験し理解してきました。
いろいろもがき、苦しみ、抵抗し、手段尽きて降参すると、厚い雲に穴があき、プラス面が意識に上ってくる、、、
そうすると、<今までが継続するこれから>ではなくなる、、、
そんな時、不治だといわれた病気も癒えるのです。
とても画期的な考え方でもあり、実践方法でもありますね。
ただ、一読して感じたのは、珠玉の宝石が無造作に投げ出されているようなイメージです。
とてもユニークで内容が濃いんだけれど、その魅力が伝わりにくいように感じました。
たとえば、からだとマインドとの関係についての章がありますが、臓器ごとに意識との関係を具体的に網羅されている、、これなどは本来はこの10倍ぐらいの頁数になるでしょう。
実にあっさりとまとめられていて、色気がないというか、、、
もともと、そういう色気はもってないので、、、(笑)
ポピュラーな本にしたいという気持ちもあまりなかったので、、、
ただ、ここに示したような知恵や知識をもとにして、いろんな人が、それぞれの実証例にもとづいて、その知恵や知識を広げたり深めたりしていってくれるといいなぁとは思ってます。
本人や家族や医療ケアの人たちが、実際に使えるように工夫したつもりなんですが、、、
<病は気から><病は気がもとになっている>ということを語る者としては、なみさんのキャリアは申し分ないですね。
医師としての経験では、からだから病をみて、、、コーチングの経験では、気から病をみている、、、両方からみることができるので、両者の関係性が誰よりも理解できる、、、
そういうことに加えて、ちいさなころから、<病は気から>を体験してきたということもあると思います。
例えば、こういうことがありました。
小学校4年生のときに肋膜炎になったんです。
なんでなったのか、うすうす4年生なりに気づいていた、、、
私には兄弟がいなくて、母親が3歳のときに亡くなって、継母は素晴らしい人だったが心の距離があって、そして父親は<権威者>でした。
4年生のときに級長になったんです。
すると、責任を感じてみんなをコントロールしはじめたの。
父親が自分に対してやっていることを、同じようにやったわけ。
もちろん、子供たちが喜ぶはずが無い、、、
ほどなくして、彼らからつまはじきにされていると感じました。
彼らから必要とされていないと、すごく悲しかったことが胸に来て、肋膜炎になってしまった、、、
そして、子どもながらに、病気の原因を直感的に理解していた、、、
そういった体験が昔からよくあったんです。
もちろん、医師やコーチングの時代にもたびたび経験していました。
こうした病と気との関係は、すぐに見えることもあるし、その関係が長い間見えないこともある、、、
小学4年のこの時の経験はすぐに見えるものでしたが、さきほど話した<あだ討ち>は、見えなかったほうですね。
さきほどの<あだ討ち>の話の続きを聞かせてください、、、
<あだ討ち>について、もうすこし補足すると、<病は気から>という認識に続いて、こういう洞察がでてきたんです。
前の会社を辞める、そのような事件の前から、私は随分おかしくなっていたのです。
アメリカから来ていた仲間とも離れてしまって、自分のエゴを制御するものがなくなった状況にいた。
それで、自分のエゴが強くなってきた、、、干からびてきた、、、という感覚があった。
でも、パワーを感じる環境にあって、エゴがそれに執着していた。
アヘンのようなもので、エゴがみずからそれを放棄するのは考えられなかった。
いくら自分がエゴ的になり、干からびてきている、と感じても、手放せるものではなかった。
自分自身の力では、そこから脱け出せなかったんです。
あの事件で、手放さざるおえないような痛い状況に追い込まれて、ようやくそれができた。
おそらく、社長をあのまま続けていたら、私は干からびて精神的に死んでしまっていただろうなと思います。
そういう事態を避けることができた、、、
そこには、なにかしらの知恵が働いていたように感じます。
なるほど、、、なみさん自身が、雇用者としてオーナーの力の在りかたに同化していたわけですね。
小学4年の時に、父親の権威者をまねて、級友たちをコントロールしたことと重なりますね、、、
なみさんのなかのエゴが、そのパワーに魅せられていた。
しかし一方で、そのエゴ的な執着に対して、<干からびてきた>という感じも抱いていた。
<干からびてきた>と感じていたのは、エゴではない何かですね。
つまり、エゴとエゴでない何かとの戦いがあったのではないか、、、
そして、なにかしらの知恵が働いて、エゴの抵抗を退けて、<干からびてきた>状態から、なみさんを救いあげた。
眼に見える形では、オーナーの酷い仕打ちという現象で、、、