日本に支部をつくろうという気持ちは全然なかったんです。
プログラムを日本に持っていきたいという純粋な思いです。
さらには、日本からアジアへという大きな意図をアメリカで公言していました。
どうして、そういうふうに思われたんですか?
自分自身が得られた自由があまりにもすばらしかったので、それを日本の女性とシェアしたいと思ったんです。
<アジアへ>は、意識の隅にいつもありましたが、日本が第一歩でした。
このプログラムで、日本女性のひとりひとりが解放される、、、と。
生活環境を変えるというような、日常生活面での努力や具体的な行動などは必要としない、、、
内面の作業をするだけ、、、
それだけで解放されて自由になる、、、
そういうすばらしいプログラムを、日本女性の自由と幸せのために役立たせたい、、、
、、、というのが、帰国の主な動機でした。
なみさんがご自身で得た内的自由というものを、日本女性と分かち合いたい、、、
それは、女性だけでなく男性も含めて?
最初に思ったのは、女性のために、、、です。
そのつぎに、女性だけでなく、女性以上に男性も解放されていないことがわかり、
みんなが自由になれればと思いましたが、、、
1985年53歳で帰国されるんですね?
そうです。
それまで、時々日本には帰国されていたんですか?
2度ほど短期間ですが帰国しました。
では、久方ぶりの長期帰国だったんですね。
そうです。
仕事をするつもりで帰国しましたから。
85年というと、日本はバブル絶頂期でしたが、その時の日本の印象はどうでした?
まったく知らない国に来たような感じでした。
終戦直後のまだ道路が砂埃を立てていたころに日本を離れましたから、、、
その時、なみさんが所属していたのは、なんという会社ですか?
ワーナーエアハ−ド・アソシエイツです。
本社がサンフランシスコにありました。
帰国されて、最初はどういうことをされました?
まず、活動基盤をつくりました。
正式なスタッフは私だけでしたが、4人のボランティアが協力してくれました。
4人のボランティアというのは、プログラム受講経験のあるアメリカ人3人とアメリカ人を奥さんに持つ日本男性一人です。
自分で、なにもかもやりましたが、一番難しかったのは翻訳です。
プログラムの日本語への翻訳ですが、私は日本語を話せなくなっていたので、、、
それと日本語でリードすることでした。
主な活動はなんだったのでしょう?
セミナーのための参加者集めと説明会のリード、プログラム、その他資料の翻訳でした。
人は集まりました?
最初は、手伝ってくれた4人が集めてくれました。
彼らがいてくれなかったら、日本では始まっていなかったと思っています。
85年4月に開いたセミナーでしたが、34人集まりました。
その時は英語でやりました。
その次のセミナーはがんばって日本語でやったかな、、、
しだいに参加者が増えていって、そのうち、ひとクラスが最高で240人ぐらいになりました。
それは、すごいですね。
頻度は?
当初は3ヶ月に1回から、徐々に毎月1回程度。
それから、大阪に支部を設けて、こちらでも定期的に開催。
それ以外に、アメリカに行っては、新しいプログラムを習得して、日本に導入していました。
導入ということは、まず私がリード出来るように習得し、それを日本語化し、リードする、、、
参加者集めのための資料を作り、参加者募集用スタッフを訓練し、そして参加者を集める、、、
何でも必要な事はやりました。
それが大きく拡大した基であり、限界の基にもなりましたけど、、、
この会社は、アシスタントのボランティアを歓迎する政策により、献身的な人達のお陰で、プログラムも企業も大きく発展しました。
プログラムメニューというのは、いろいろあったのですか?
基本コース、アドバンスコース、コミュニケーションコース、スタッフのためのトレーニングコース、
少人数セッションコース、リーダー養成コース、などです。
参加者は、女性の方が多い?
男性・女性は半々ぐらい。
どれぐらいの人が受講したんですか?
おそらく、13年間に延べで4万人を超えていると思います。
その活動は、1997年まで続いたんですね。
そうです。
97年から1年間は、私には退職前の過渡期で、人を訓練したりしてすごしました。
13年間フルにやりました。
実は、その途中の1991年にアメリカの本社が解体されて売却になったのです。
それで、ワーナーエアハードからの指示で、あらためて日本での新会社をつくり、私が社長としてやるようになりました。
しかし、その後の1997年に、エアハードの意向で、会社の経営権の移行があり、経営上の疑問点などをそのままにしておけなくなり、、、それで、私は会社を辞めました。
辞められたあと、1998年67歳の時にMITに行かれますね。
それは、どうしてですか?
オーナーのエアハードから会社をつくれと言われて、社長として頑張って、ビジネス的には成功しました。
でも、最終的に、私は失敗者だという感じに陥ったのです。
今まで、肝心な点では失敗したことがないと思っていたので、それが腑(ふ)におちないんです。
表面的には成功していた、、、失敗したように見えなかった。
いったい、なにが失敗だったのか、、、ビジネス教育の経験がありませんでしたので、、、
それで、MITに行って、私のやったことの何がよくて、なにがだめだったのかを検証しようと思ったわけ。
自分がやってきたことを、ビジネスや会社経営の側面から、客観的にみたいということですね?
そう。
アメリカのビジネススクールはいろいろあるようですが、なぜ、MITに決めたのですか?
正式名は、MITのスローンスクールオブマネジメントと言いました。
友人に、ハーバードとMITのどちらがよいかと聞くと、ハーバードはがちがちなので、MITのほうが良いと言われて、決めたんです。
私のレベルでは、どっちだろうが変わりはしなかったのですが、、、
このMITの授業というのはどういう内容でしたか?
自分より何回りも年下の学生と机を並べて、マネジメントについての勉強をしたのですが、いろんな科目がありました。
なかでも、フォレスターという人のシステムズダイナミクスという授業がよかった。
組織における、ある現象が他の部分にどのように影響を与えるか、ひとつのことが他にどうつながっているのか、というような内容でした。
役に立ちました?
役に立ちましたよ。
それによって、いろんなつながりがみえてきました。
行って良かったと思います。
MITに行かれた時は、アメリカに住んでらした?
1年間、ボストンに住んでました。
その後、日本に再帰国されますね。
1999年でしたか。
そうです。
どうして、日本に帰ろうと考えたかというと、日本ということを強く意識したんです。
前回は、日本女性のために、自分の経験をシェアしたいという気持ちでした。
再び帰って来た時は、日本女性よりも<日本>でしたね。
というのは、ある時、こういうことに気づいたんです。
パソコンでニューヨークタイムスのホームページを閲覧していたときのこと。
ちょうど開いたページに、世界の時計が表示されていました。
当然、アジア地域には、東京の時刻が表示されているものと思い、見てみたところ、ない。
表示されていたのは、香港でした。
それはないだろうと思ったんです。
日本は当時世界に対して金銭的な貢献をすごくしていたので、当然東京の時刻が載っているだろうと思っていたんですね。
だけど、そんな経済的なことには関係なく、国際的に認められていなかった。
では、なぜ日本は、国際的に存在感がないのか、、、
そういうところから、日本に帰ろうという流れができてきました。
国際的に存在感のある日本をつくりたい、というのが、帰国の動機ですか、、、
そう。
じゃあ帰ってきて、日本で何やるの、、、
日本が国際的に評価されるためには、お金のことではないですね。
すでに、お金ではさんざん貢献していましたから。
日本人の在りかたが問題なんだと思いました。
それを扱うには教育しかない、、、
それで、日本を見てみると、当時は、不登校が社会問題としてクローズアップされていた。
不登校が増えていってるのに、誰もどうしようもないという状況がありました。
日本人の在りかたの根っこの問題が、そこから見えてくると思ったんです。
では、そこからはじめようと、、、
それで、2000年に、ご自分の会社であるプロア社を設立されたんですね。
69歳の時ですね。
はい。
そこで、不登校のためのプログラムを始めました。
そのプログラムは、なみさんが作られたものですか?
そうです。
私のオリジナルです。
6か月間で学校に戻れるようになるという意図と内容でした。
受講するのは、子供ですか、それとも親ですか?
子供です。
どうやって、受講生を集めました?
不登校が多いと聞いていたのに、生徒を見つけるのがものすごくむずかしかった(笑)
以前のプログラム参加者からの紹介で、最初の生徒を見つけました。
たったの二人でした。
プログラムは成果ありました?
ありましたよ。
6か月かからないで、学校に行くようになりました。
そのプログラムはどういうものなんですか?
私は、基本的には、学校に行きたくない子供はいないと考えてました。
行かないのは、なにか邪魔しているものがあるからだと。
それを取り除けばいいだけなんです。
だから、学校にいきたくなるようにしようとは決して思ったことはないです。
なにが起きて、なにが邪魔して、行きたい学校に行けなくなったのか、、、
そういうことを発見できるようになると、学校にも行けるようになる、、、
と同時に、こういう作業から、生きる知恵が身につくようになる、、、
そういうことを教えていました。
昔、ある精神科医で、診察に連れてこられる子供よりも、親のほうがよっぽどおかしいのが多い、という話がありましたが、親や教師の影響はどうなんでしょう?
たしかに、子供よりも親のほうがだいぶ問題があると感じていました。
それで、子供の次に、親の方に入っていきました。
親を扱わないと、子供では遅すぎると思ったわけです。
それは、どういう活動ですか?
まず、子育て講演会を日本全国でやりました。
時々、自分で子供を産んだことも育てたこともないのに、よくこんなことを言えたもんだなぁと感じていたんですが、自分としては、子供の立場にたって、子育て講演会をしているつもりだったんです。
お母さんには好評でした。
仙台から北九州まで講演をしに行きました。
そういうところから、見えてくるものがいっぱいあった。
それから、親のためのプログラムをつくりました。
本も出しました。
どういう本ですか?
『NAMIさんのネーミング子育て』というタイトルです。
2008年に出しました。
どんな内容ですか
子どもに、どういう人になってほしいのか、、、
人の間で幸福に生き、自分のやりたいことは、自分のためにも人のためにもなる要素が自然とあり、社会で成功できる、、、
自分の子どもがそのように育ってくれるためには、親としてどんな自分であればいいのか、どのように子どもと接していけばいいのか、具体的に実行できるような行動指針を書いてみました。
簡単にできる行動ばかりです。
子育て中の親に対する応援本ですね。
そのための基本は、こどもの<being>を無条件に愛し、<doing>を躾け、<having(結果)>を褒める、、、ということです。
このころに、もう一冊出版されてましたね。
2009年に発行された『みんな好きで一緒になった』ですね。
これは、夫婦の絆を新しい視点から見直して、幸せな家庭を築くための本です。
私自身は、2度の離婚を経験しており、夫婦生活は失敗の連続でした。
そういう辛い体験から、誰でも実行できる教訓を引き出して、私のような失敗をしなくても良いようにと願って書きました。
幸せな夫婦関係が、子どもが育つ環境としても一番大事なことですから。
こうした出版などの活動と並行して展開されていたのが、<個の発展>プログラムですね。
どういうものか、ご説明いただけますか。