臨床医でしたから、理論通りいかないことが多いんです。
現実をあつかっていますから、、、
治ったはずの人が突然亡くなったり、治るはずの無い人が治ったりということが、現実にはあるんですね。
例えば、さあ明日退院するという人が、やっと家に帰れると喜んでいたのが、前の晩に息子が来て、家には帰れない(帰ってくるな)と言いました。
すると、翌朝、わけのわからないバイ菌が血液にはいって、昼には亡くなってしまった。
そういうことが、時々ありました。
そこで、ちょっと待てよ、と思いはじめたんです。
そして、そのころに、いつも暗い顔をしていた同僚が明るい顔をして現れたんです。
離婚でもしたのかと思いましたが、あるプログラムに参加したと言うのです。
あまりの変化に興味を持ち、私もためしに参加してみました。
それは、一言でいうと、自分の内面を探求するセミナーでした。
その同僚の方も、医師だったのですか?
そうです。同じクリニックでした。
当時、医師のあいだで、そういう興味が広がっていたのですか?
私がいたクリニックは、科学的なものの見方だけでなく、人間的なものの見方も重視する人が、比較的多かったように思います。
そのセミナーに参加されたのは、いつごろですか?
1974年、43歳の時です。
もうそのころに、アメリカでは、医師のような人たちが、精神的なものに向かいつつあったんですね。
日本では、まだそのような気運(現象)は出てなかったですね。
日本は、まだだったでしょう。
そのようなできごとから、なみさんも精神的な方向へと向かわれたんですね。
74年の内面探究のプログラムというのが、最初のコーチングとの出会いですか?
コーチングというよりは、トランスフォーメーション(個の変容)プログラムと言ったほうがいいでしょう。
そのころはまだ、コーチングという呼び名は使われていなかったようです。
しかもコーチングを主題としたプログラムではなく、コーチングを方法として行われていたトランスフォーメーションのプログラムです。
ホノルルでも開かれていました。
一言でいうと、自分という存在は何なのかというテーマで、参加者をリードするという斬新な内容でした。リーダーたちが、後々(のちのち)コーチングと呼ばれるようになった手法を使って、情報提供でもなく、教えるのでもなく、参加者のひとりひとりが体験できるように導くというものです。
そのプログラムの名称は、なんですか?
当時は、エスト・トレーニングと呼ばれてました。
どなたが始められたのですか?
ワーナー・エアハードです。
この人は、両極端の評判のある人です。
すばらしいという人と、酷いという人と、、、
日本でもインターネットをご覧になると、両方の評価が出ています。
いずれにしろ、とても影響力のあった人です。
どういう内容だったのですか?
概念的に操作して理解するのではなく、体験的に追求して理解するというところが斬新でした。
それまで、無意識に概念的に生きてきたのが、体験的に生きるのを意識できるようになった。
それが、新しい発見であり、大きな収穫でした。
そういうことを通じて、自分のことがわかるようになり、すごく面白かったんです。
過去にスピリチュアルなことを学んでいた人は別なんでしょうが、それまで、私はそういうことをやったことがなかったので、新鮮な経験でした。
コーチング一般についての勉強はされたのですか?
私たちがやっていることが、コーチングと呼ばれているようだと気づいてから、独学で勉強らしきものはしましたが、、、
具体的なひととのかかわりかたを、私はコーチングと呼んでいます。
というのは、教えているわけでもないし、カウンセリングしているわけでもないし、アドバイスしているわけでもないし、メンタリングでもないから、、、
しかしまた、それらが全部ふくまれていて、、、相手が自分で出来るようになるための対話なんです。
日本では、たしか1979年ごろに、グループダイナミクスというプログラムが、アメリカから導入されて、はじまっていましたね。
ちょうど、自己啓発本やプログラムが日本でもはやり始めた時期で、ナポレオンヒルやジョセフマーフィ、ポールマイヤーなどを、私も少しかじったり、実践のまねごとをしたりしていました。
こういうものの直近のルーツはなんでしょう?
アメリカからインドに修行に行った人たちが、帰国してからアシュラムのようなものを開いたりして、ヨガなどが、ベトナム戦争時に西海岸を中心に広まったようなところからつながっているのではないかしら、、、
このころは、ヒッピー現象とともに、ニューエイジとかニューサイエンスの大波も押し寄せていましたね。
チベット仏教や禅の影響も大きかった。
それから、アメリカにWジェームズという心理学者がいますが、彼の思想なども、ルーツのひとつかなと当時は感じていました。
そうですか。
そういう方面は、大久保さんの方が詳しいでしょう。
トランスフォーメーション(個の変容)プログラムに出会った後、病院をやめられますが、その間、自己探求の勉強と病院の仕事を並行してやられていたんですね。
5年間もの間、並行してやってましたね。
自己探求(個の変容プログラム)の学習は、なみさんにどういう影響がありました?
内面的な作業を通じて、過去のしがらみというようなものを取り外すことができたりして、、、というより自然とそういうふうになってきて、人間関係がたやすくなってきたんです。
同僚との関係も親密になってきたり、また、権威や権力に対して恐れなくなった、
以前から割合と明確に自分の意見を言う方だったのですが、その表現に攻撃的なところがなくなった。
医者として仕事が自然体で楽にできるようになったんです。
すべてが良い方向に向かって、周囲から認められて、内科の責任者になることもできました。
家庭でも温和になった。
いいことばかりでしたよ。
臨床医と自己探求(個の変容プログラム)の二つを同時経験されていたわけですが、、、
医師というのは、身体を物質的に扱う、、、
自己探求のほうは、意識のほうに目を向ける、、、
両者の関係は、なみさんにとってはどういうものでした?
当時は、今でもそうかもしれないですが、このふたつを関係づける科学的な知見はなかったですね。
ありませんでしたね。
ですが、身体を物質的にみるだけでは、もう先にいけないという思いが強くありました。
当時の医学的常識は、なみさんにとっては、不十分だったわけですね。
そうですね。
目の前に起きている現実を、医学的常識だけでは十分に扱えなかったということです。
そういう意味では不十分でした。
患者を、<病名が靴を履いてやってくる存在>として見られなくなってしまって、、、
彼らの人間性に関わるようになって、オフィスのスケジュールがめちゃめちゃになりました。
日本でもアメリカでも、臨床医というのは、数多くの実例に立ち会っていますね。
たぶん、医学的常識だけでは判断できないケースというのはいっぱいあると思うんですね。
そういうケースに出会った医師は、一般的には、どういうふうに自分を納得させるんでしょう?
もう単純に忙しいということですね。
内面なんかみてられないわけです。
では、科学的常識に反する現実が目の前にあるけれども、忙しいから棚上げにしておこうということですか?
そんなに意識的にならないです。
もっと安易に、、、薬を出しておしまい、、、です(笑)
科学者というのは、本来、自分自身の科学的信念に反した現象を目にした場合は、かならずそれを検証しますよね。
それが、本来の科学的立場だと思いますが。
医師は、科学者ではなくて、職人なんです(笑)
なみさんは、単なる職人ではなかったんですね。
疑問を追及したわけですから。
逆に、あまりにも職人的だったので、職人技が届かない部分が気になったということかしら(笑)
まあとにかく、この自己探求(個の変容)の世界が、なみさんにとって魅力的で、ワクワクする新しい世界だったということですね。
それにしても、よく辞められましたよね。
ふつうは、医者としてそこまで成功したキャリアを捨てるというのは、できないでしょう。
辞めようと思ってから実際に辞めるまでに、3年かかりました。
3年間、どうしよう、どうしようと悩んでました(笑)
最後には、ぐいとひっぱられ、決断しましたけど、、、
普通の人はしませんね。
変りものですから(笑)
トレーナー(コーチング)の仕事というのは、はじめはどういうものでしたか?
まずは、見習いから始めるわけです。
その時に遭遇したのが、自分のエゴです。
当時、私は医者としてそれなりに認められる立場にいました。
そのために、エゴが新しい現実に適応できなかった。
新しい現実では、自分が偉くないので、それを認めて、その状況に慣れるのがすごく難しい、、、
私が、今まで手足として使っていたような人が、今度は、逆に私に指示してくる、、、
ものすごい侮辱を感じてました。
耐えられなかったですよ。(笑)
それから、なにをやってもうまくやれないんです。
なんども失敗しました。
こんなはずじゃない、と、すごく自分を責めたり、人をなじったり、、、とうとう、なにをやらせてもだめだということになり、電話の交換手のような仕事をさせられるようになりました(笑)
しかし、それさえもうまくできなくて、もんもんとしているうちに、人の前に立ってリードする訓練も始まって、それもまったくできないんです。
もうぼろぼろになってしまって、それで、もうだめだ、どうにでもなれっと思ったとたんに、前に進めるようになりました。
あがいているうちはだめでした。
面白い経験でした。
病院をやめられたのはいつですか?
1974年にはじめて<個の変容プログラム>のトレーニングを受けて、病院をやめたのが5年後の1979年。
5年間のうち、最初の2年間はやめる意思はまだなかったので、もんもんとしていた後の3年間がしんどかったですね。
ほんとにやめられるのかな?、、、ほんとにこの地位を手放すことができるのかな?、、、と。
医者をやめられて、そのプログラムを展開する組織のスタッフになって、それからトレーナーになられるのですね。
トレーナー候補者・見習いとして雇用されました。
トレーナーになってからは、世界中でリードしました。
世界中とは、どういうところですか?
アメリカは、ほとんどの地域に行きました。
カナダも大きな町にはほとんど行きました。
それから、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス、インドなど、主に英語が通じる国々ですね。
海外に支部があったんですか?
そうです。
では、まずアメリカを中心に海外も含めて、トレーナーとしての経験を積まれて、そのキャリアのもとに、日本にも支部をつくるということで、帰国されたんですか?