今日は、小南奈美子さんこと<NAMI(なみ)さん>がゲストです。
よろしくお願いします。
こちらこそ、よろしくお願いします。
今回のテーマは、<個の変容>と<女性の自由と幸せを実現する生きかた・働きかた>ですが、なみさんのこれまでの人生をたどりながら、お話を伺いたいと思います。
話の段取りとしては、、、
最初に、なみさんのこれまでの仕事や活動について、、、
つぎに、現代の女性にとっての生きかたや働きかたについて、、、
3番目に、なみさんの基本的な思想である<個の発展>について、、、
最後に、なみさんが今後のライフワークとされている<SQプログラム>について、、、
と、大きく4つぐらいにわけて、お聞きします。
〔註〕 SQ・・・精神指数(Spirichual Intelligence Quotient)
わかりました。
うまくお答えできればいいけど、、、
本論に入る前に、なみさんと私(大久保)との関係について、ちょっと触れさせてください。
なみさんに初めてお会いしたのが、2007年ごろでしたね?
もっと前じゃなかった?
2005年ごろじゃないかしら、、、
そうでしたか、、、
デメ研(デジタルメディア研究所)のかめちゃん(亀田氏)の紹介で、当時四谷にあった私の事務所にいらしたでしょう。
そうでした。
その時、どういうことでお会いすることになったのか、まったく忘れてしまってますが、みんなで近所のインドカレーの店に行ったのだけはよく覚えています。
私もそれは覚えてます。
どういうわけか、その時の店のテーブルクロスの模様が印象に残っていて、いまだに浮かんできますよ(笑)
肝心なことは忘れて、食べ物だけは記憶に残るんですね(笑)
それから、何度かお会いしながら、仕事の面では、私が運用している育児サイトや女性起業支援サイトなどに登場いただいて、なみさんの情報やアドバイスを掲載させてもらいました。
そうでした。
とても有意義な活動をなさっていたので、すこしでも参加させて頂きたく、またお役にたてればと思いました。
そして、2009年には、なみさんのグループセッションである<10デイズ>に参加させていただきました。
10日間にわたるセッションで、私にとって、とても感銘深い貴重な経験になりました。
こちらこそ、参加していただいて、光栄でした。
それまで、私は、コーチングの類はまったく知識も経験もなかったのですが、というよりも、ある種の先入観があって、あまり興味が無かったというほうが正直な感想ですが、そうした先入観を吹き飛ばす新鮮な驚きがあり、目を見開かせてくれました。
そのセッションで、なみさんの人格の独創性といったものを強く印象づけられましたね。
それは、嬉しゅうございます(笑)
今までいろいろお付きあいさせていただきましたが、私にとって思い出深いのが、なみさんとの折々の食事会でしたね。
ワインを持参してご自宅に伺い、手料理をご馳走になりながら、なみさんは飲まれないので、私ひとりでワインを1本空けて、昼から夜中までまる一日、なみさんとの話に熱中して、最後は酔っぱらってしまって、夜遅く退散するということを繰り返していましたね。
大久保さんは酔うと面白くなるので、私も奥に仕舞い込んであるテキーラなんかを取り出して、勧めていました(笑)
翌日は決まって二日酔いで、前日なみさんと何を話したか覚えていないという情けないパターンでしたが(笑)
まぁ、とても楽しい時間をいただきました。
私も、ワクワクして、大久保さんの話を聞いていましたので、とても楽しかったです、、、
そうしたお付き合いのなかから、なみさんにはたくさんのことを学ばせていただいて、ほんとうに感謝しています。
こちらこそ、ありがとうございます。
では、まずこれまでのお仕事や活動について、お聞きします。
なみさんは、戦後すぐに渡米されて、アメリカで医師になられますね。
はい、渡米したのは、戦後9年目でした。
9年目というと、昭和29年ですか。
サンフランシスコ講和条約発効からまだ2年後なんですね、、、ということは、日本は戦犯国として見られているような風潮が、海外ではまだありましたが、、、
そういう中で、よくアメリカに行かれたなぁと思います。
日本の女性でほかにそういう人はいなかったでしょう。
そうです。
それが、渡米して大学に入ると、同級生に日本の女性がいたんですよ。
石井さんといって、たしか海軍大将か少将の娘さんだったと思います。
そうですか、そういう日本女性がほかにもいらしたんですね。
やはり、裕福なご家庭だから、そういうことが可能だったのですか?
全然そうではなかったのです。
私が生まれる前に、父の事業が大きく成功していたので、私が幼いころは裕福なほうだったと思います。
ところが、1945年に空襲で家が全焼し、なにもかもなくなって貧乏になってしまいました。
そして、私が15歳の時、父が亡くなりました。
父の死後、義母と私は、小学校の用務員室で暮らし始めたのです。
義母が用務員をやりながら、私もその仕事を手伝いながら、女学校を卒業したんです。
渡米前は、アメリカ人家庭のメイドや通訳をして、生活費を稼いでました。
渡米後も奨学金をもらったり、日本に残した母に仕送りをしたかったので、アルバイトもしてました。
勉強と貧しさで悲壮な思いをしながら生きていました。
若いころから実生活で鍛えられていたのですね。
大学では、最初、社会学を専攻されたと聞きましたが、、、
そうなんですが、それを専攻したことに深い意味はなかったんですね。
当時日本では、社会学というのは、新しく耳にする言葉で、一般にはよくわからない学問だったの。
だから、アメリカで勉強して、日本に持ってくれば、なにか先行き面白いんじゃないか、という気持ちでした(笑)
なるほど、そのころから好奇心旺盛で、気持ちが先取的だったんだ。
勉強をはじめたのはいいけど、どうもこれは違うぞと思ったんです。
、、、というのは、もともと自分の特徴は職人気質なんです。
つまり、考えるよりも、やることのほうが得意というタイプね。
ところが、社会学は考えなければならない。(笑)
たしかに、社会学は職人的ではないですね(笑)
だから、これは専攻を変えないと、後で辛い思いをすると気づいて、まずは適性検査を受けたんです。
そしたら、数学者か歯医者がいいという結果が出た。
数学はもともと苦手だったので、では歯医者にしようか、歯医者のほうが職人的だし、、、
だけど、歯医者には行ったことがないし、なじみもないなぁ、、、
それじゃあ、歯医者に近くてなじみのあるものはなんだろう、、、
では単純に医者になればいいではないか、、、と思ったんです。
実は、私が生まれる前に他界していた兄が医者だったこともありました。
社会学にしろ医者にしろ、わりと安易な決め方だったんですね。
なみさんは、もっと深く自分を省みるタイプだと思ってましたが、、、
そう見えるだけで、根は単純なんです(笑)
アメリカでも、女性が医者になるケースというのは少なかったでしょう。
少なかったし、当時は、いい医科大学に女性が入るのは難しかったこともありました。
社会学から一転、医学の道へ進む決心した私は、大学専攻を<医学前の科>に切り替え、卒業後フィラデルフィアの女子医大に進学しました。
異国の地で、母国語でない言語で、医学を学ぶというのは、相当の努力が要ったと思うのですが、かなり勉強されたんでしょうね。
大学での成績は、一学期を除くと一番だったと思います。
最初のうちこそ、読書スピードが遅くて苦労しましたが、2学期からはずっと優等生で賞もたくさんいただきました。
日本の大学はそれほど成績に注意を払わないように思いますが、アメリカ人はすごく気にします。
ですから、大学では猛烈に勉強しました。
医大では勉強しなければ第一ベースにも届きません。
日本でもアメリカでもめずらしい生きかたを選択されたようですが、、、
自分では変わった生きかたをしているとは思っていましたか?
別に変わっているとかは思っていなかったです。
自分がやりたいことをやれるようにやっていただけです。
それはなっとくです(笑)
医師としてのお仕事について、教えていただけますか。
1962年31歳で医大を卒業して、フィラデルフィア総合病院でインターンシップを一年、その後、ジョージタウン大学の付属病院で内科の研修を積みました。
そして、内科の専門医となり、そこから腎臓の専門医に進み、ハーバード医大で透析と移殖の前後の内科的処置の研修を受け、その後はその分野を主に扱っていました。
臨床医だったのですね。
基本は臨床ですが、大学で教えてもいました。
一時、2年間ほどハーバード大学の病院にいた時は、研究医でもありました。
だから、臨床、教育、研究すべて経験しました。
医師としては、よく働かれてました?
まじめによく働いてましたよ(笑)
透析ひとつとっても、いろいろあるんですね。
例えば、手術後の重症の患者たち、腎臓が時々機能しなくなってしまうんです。
血液のなかに流れている水分と塩分のバランスがおかしくなったりすると、それを調節しなければならない。
そんなような緊急事態が頻繁にあって、病院内を“ジャンピング”するように忙しかったですね(笑)
2,3の病院に自分の患者がいて、それとは別に、自分専用のオフィスがあって、そこでは外来の患者を診ていました。
朝、病院を見て回り、それから、自分のオフィスで外来を診て、自宅に帰る前にまた病院回りをして、というのが一日のパターンなんですが、緊急の患者がいると、それでは足りないんですね。
ですから、しょっちゅうオフィスと病院を行ったり来たりしてましたね。
当時というか、今でもそうなんでしょうが、アメリカの医療というのは、世界的にも最先端にありますね。
ええ。
日本は、それにくらべて、だいぶ遅れていたんですか?
さあどうなんでしょう、、、当時の日本についてはよく知りませんでした。
相当の努力をしないと、ついていけないですよね。
そうです。
まず、さっきも話したように、医大で勉強するのはあたりまえでした。
勉強しなかったら、脱落してしまいます。
インターの時は、さまざまな医学雑誌に毎週目を通してましたが、そうしないと、専門についての自信が保てなかったんですね。
病棟に派遣されてくる医大生を教えるようになると、もっと大変になりました。
知識欲に燃えている学生の質問に的確に答えるようにしなければならなかったので。
臨床における透析とか移殖のことも、当時は新しい分野の知見なので、これも勉強しないとだめでした。
食べて、仕事して、勉強して、一日終わりです。
やっと寝る時間が数時間あるかどうかでした。
まぁ、ですから勉強は結構しました。
以前、ある方から、、、なみさんが内科医としても腎臓専門医としても、最上席にのぼりつめて、優秀な医者として内外から評価が高かった、、、とお聞きしましたが、その努力とご苦労は大変だったろうと想像します。
医師として、一番大変だったというか、つらかったご経験は、どんなものですか?
そうですね、、、
一番大変だったという意味では、意外に思われるかもしれないけど、こんなエピソードがハーバードで腎臓科研修員の時にありました。
ある日のこと、受け持ちの15人ほどの患者を診て回ったんです。
その日は同僚の医師が休んでいたので、いつもより多かったんです。
そして、上司の医師に報告したのね。
報告が終わった時に、その上司に、患者Aさんはどうだったのか?と聞かれたの。
実は、15人の受け持ちの患者のうち、Aさんを診るのはすっかり忘れていたの。
だから、『Aさんはうっかり忘れていた。すぐに診てきます。』と言えばいいだけなのに、その時、どういうわけか、『大丈夫です』と答えてしまったんです。
とっさに嘘をついたわけ。
そして、嘘をついている自分をじっと見ている自分がいるのね。
その後で、急いでAさんの容態を診にいくと、微熱があった。
これは報告しなければいけない、、、と思って、しばらくしてから、その上司に『Aさんは微熱がありました。さっきの報告で嘘をつきました。』と言いました。
この時の経験が一番つらかったですね。
一晩寝ずに患者の容態を診たり、治療のために全神経をふりしぼったりというような大変さよりも、私にとっては、このことが一番大変なことだったようです。
それは、なみさんらしいというか、そのころから、なみさんが、そのように自分をみてるというところが面白いですね。
将来のトレーナー(コーチング)の活動につながっていくようなところがありますね。
たしかに、後々頻繁に実践するようになった自己観察・思考観察の最初の体験かもしれないです。
当時、日々医療を実践されていた時は、科学的な思考法というか、合理主義的なスタンスでいらしたんですか?
もちろん、他の医師と同様に、当時はそれを疑ったことはありませんでした。
それが、しだいに疑問を持ちはじめるんですね?