農家の女性の自立を目指してドライフラワー作りで集った8人が、フレンチのシェフに師事して、ハーブ園とレストランをオープン。大反対の家族をプレゼンと試食で納得させ、年間3万人が訪れる店に成長しました。
仕事の経験 |
結婚 | 子ども |
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生かした | していた | いた |
高校を卒業後、地元の建設会社に就職し、総務と会計を担当。農家に嫁ぎ、仕事を続けながら、農林水産省が中心となって組織した、戦後の農村・漁村の生活改善と女性の自立支援事業「生活改善グループ」の地元グループに入る。ここで知り合った女性7人と共に、ハーブを使ったドライフラワー作りを行いながら、ハーブ園とレストラン経営を計画。フレンチのシェフに師事し、30年勤めた会社を退職して会社を設立。女性8人で「花農場あわの」をオープンした。
年齢 | 西暦 | 主な活動 |
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19歳 | 1968年 |
高校卒業後、建設会社に勤務し、総務や会計業務を担当 |
24歳 | 1973年 | 結婚し、勤務を続けながら、農家の主婦として、粟野町「生活改善グループ」 (農林水産省による戦後の農村・漁村の生活改善と女性の自立支援の事業)に 入る |
49歳 | 1998年 | 30年間勤めた会社を退職。粟野町生活改善グループで知り合った農家の女性8人と、ドライフラワーとして使っていたハーブを料理として生かしたいと思い、栃木県地域興しマイスターでもあった、フランス料理の音羽和紀シェフに料理とレストランサービスを一年間学び、有限会社花農場あわのを設立 |
50歳 | 1999年 | 「花農場あわの」をオープン |
栃木県の風光明媚な里山と花畑のなかにポツンと建つレストラン「花農場あわの」。土日ともなれば、40台収容できる駐車場と100席の店内はいっぱいになり、元気な女性たちがフロアと厨房を切り盛りしています。採れたての新鮮な野菜とハーブでつくるフレンチとイタリアンをベースにしたおいしい料理の数々…。目指して来るのは、県内のお客様ばかりではありません。「まわりに何もないところですが、埼玉県や東京方面からもわざわざ来てくださいます」と、代表の若林ふみ子さんは嬉しそうです。
2009年で11年目を迎えるこのレストランをつくったのは、家業は農業という8人の女性たちです。そもそもの始まりは、粟野町「生活改善グループ」という農家のお母さんたちのグループで彼女たちが出会ったことでした。「生活改善グループ」は、戦後、全国の農村や漁村の生活改善・女性の地位向上・自立支援などを目的に、農林水産省が中心となって組織したもので、現在も地域女性の交流や自立支援の場として機能しています。若林さんたちは、ここで20年ほど前からドライフラワー作りを行い、販売や講習会を開催していました。130名ほどのグループのなかでも特に「お花が大好き」という8名が集まって、一緒に事業を行うことになったのです。
ハーブを使ったドライフラワー作りをしているうちに、ハーブ園をつくれないだろうか、ハーブを使った料理を出すレストランを開けないだろうかと考えるようになりました。でもこの辺りで飲食店と言えば、そば、うどん、天丼…くらいしかありません。そこで、県や町の農林課に相談したところ、栃木県地域興しマイスター(農林水産省による地域活性化サポート制度)に登録しているフレンチの音羽和紀シェフを紹介してもらいました。
音羽シェフは、栃木県宇都宮市出身で、フランスやドイツなどのレストランで7年間修行し、東京の有名店でシェフを務めた後に、地元である宇都宮市にフランス料理「オーベルジュ・デ・マロニエ」をオープンしました。そんな音羽シェフに、若林さんは、「先生、料理を教えてください」と直談判。さらに、困惑する音羽さんを「とにかく見てほしい」と、粟野まで強引に連れて来てしまいます。最初は、渋々ついて来た音羽シェフでしたが、目の前に広がる里山の風景に心を動かされます。ここならハーブを使ったフレンチやイタリアンを出してもお客様が来てくれるかもしれないと思ってくれたようで、「じゃあ、みなさんがんばりましょう。僕もがんばりますから」と言ってくれました。
若林さんをはじめ、8人の女性たちは自分たちの店を出すために、1年間、交代で音羽シェフのもとへ通いました。農繁期には家業の畑仕事を手伝いながら、午後はレストランで修行。時には、午後6時から深夜まで教えてもらうこともあったといいます。厨房に立ち、レストランとしてのサービスのノウハウも同時に学びました。まったく経験のないレストラン経営。ましてやフレンチとイタリアンという未知の世界です。しかし、若林さんの言葉からは、オープンにいたるまでの不安は微塵も感じられません。もちろん、音羽シェフという強い味方を得たことは大きかったでしょう。しかし、それ以上に、8人の女性たちは、確固たる信念を持っていました。「お客様に本物の味を知って欲しかったんです。結局、人間は食べることが基本。その基本である食に、農薬を使っていない、添加物も保存料も使ってないから、おいしくてしかも安心。食べてもらえば、きっとわかってくれると思っていたんです」
若林さんたちがこうした信念を持ったのは、さかのぼること30年以上前の出来事にありました。当時、若林さんたちの出会いの場でもあった「粟野町生活改善グループ」が、粟野市(現在は鹿沼市と合併)の友好姉妹都市である東京都墨田区、台東区、江東区のイベントに参加して、自分たちが育てた自家用の無農薬野菜を会場で販売したことがありました。
「ホウレンソウやコマツナに虫食いがあったり、青虫がいたり、キュウリはトゲがあって曲がっていました。虫食いは安全でおいしい証、キュウリのトゲは鮮度があるからこそ。なのに、買いに来たお客さんに、『虫食いがあるなら要らない。このキュウリ、トゲがあって痛いから要らない』と言われました。あー、都会の人は本当の味を知らないんだなと思いました。わかってもらえないことが悲しかったですね」
料理を教えてくれた音羽シェフも、素材を見極め、その味を十分に引き出す料理をします。素材の作り手でもある農家の女性だからこそ、本物の味は食べた人を満足させることを心底わかっていたということなのでしょう。
しかし、成功するかどうかもわからない事業を始めたことに、家族の不安は無かったのでしょうか?
「もちろん、家族が誰よりも反対しました。だから、いよいよオープンするという1ヶ月前に、8家族を集めてプレゼンテーションを行ったんです。1年間の売り上げは、ドライフラワーでこのくらい、ハーブの苗販売でこのくらい、レストランでこのくらい…というように。レストランのお客様は年間で1万人くらい来ていただける見込みですよって。8人の家族が、おじいちゃんから子どもまで60人くらい来たでしょうか。そして、みんなが、『おいしかった。これなら大丈夫だろう』と言ってくれました」
レストランとハーブ園をつくるのために借りた敷地1万1千平方メートルは、元はコンニャク畑でしたが、放置されて笹だらけになっていました。音羽さんのところへ通いながら、この土地をハーブなどが育てられるように8人で開墾しましたが、それは大変な作業でした。でもそんな苦労が嘘のように、いまは、1000株のラベンダーをはじめ、200種類のハーブや草花が育ち、100本のブルーベリーの木がたわわに実をつけ、訪れる人を楽しませています。
一方、資金調達も大きな課題でした。まず、建物を建てるお金がありません。そこで、若林さんたちが利用したのが、当時の粟野町による「ふるさとルネッサンス推進事業」の補助金です。生活改善グループとしての過去の実績を認めてもらい、4000万円の補助金を得たのです。でも、この資金はレストランの建設でなくなってしまう金額でした。ほかに、厨房設備や運転資金が必要だったので、農協の農業近代化資金からさらに2000万円を借りました。「でも、そんなに簡単には借りられなくて、最初は、『女性の仲良しグループにお金は貸せない』と言われたのです。特に地方では、女性が起業することに対して、まだまだ偏見もありますし」そこで若林さんは、県の農林課と町役場に行って、またもや直談判。「当時の町長さんは農業とそれに関わる産業の普及を細やかに見てくださる方でしたので、相談にのってくれました。『仲良しグループではダメ』と言われたのは、つまり個人では責任を負えないという理由だったんですね。それで、法人化したのです」
当時、有限会社の資本金は、最低300万円。これを8人でほぼ均等に割って出資しました。会社の定款など、登記のための書類づくりは、元々建築会社に勤めて総務や会計が得意だった若林さんが引き受けました。「でも、初めて会社登記の書類作りをしたので、公証役場に7回くらい通いました。そしたら、役場の人も呆れて、最後は手伝ってくれました。わからなかったら、助けてもらえばいいんです」
宣伝のために、NHK宇都宮支局、栃木テレビ、地元のラジオや新聞社などに電話をしました。ニュースの背景で、レストランの花畑の映像が流れた時は、問い合わせの電話が鳴りっぱなしだったといいます。「何事も体当たりだったわけですが、オープンの時は大変でした。当初は、多いときは1日300人近くのお客様が来店しましたから、こっちも対応しきれません。お客様に怒られ通しでした」そして、1年を過ぎた時には目標の倍の2万人、いまでは、年間3万人を超えるお客様が訪れる店になりました。
女性ばかり8人が欠けることなく、ここまで続けてこられたのもすごいことです。
「ケンカしたこともありますよ。でも翌日にはみんなケロッとしています。私ともう一人が一番年上ですが、一番年下の人とは12歳ほど離れていて、年齢がバラバラなのがいいのかもしれません。それぞれの持ち場があることと、不公平にならない仕事のローテーション、毎日欠かさないミーティング、経理も持ち回りで担当して全員が経営状況を理解することも大切です」
そしてなによりも、お客様を裏切らないことが大事だと若林さん。「わざわざ来るお客様がほとんどなので、私たちも一つひとつ真心を込めて料理しています。みなさんゆっくりと食事されますね。庭を見たり、ハーブ摘みなどもして、楽しんで帰っていかれます。もちろん、いまでも毎月1回、音羽シェフを訪ねて指導していただいています。クオリティを確認することと、季節毎に新しいものを提供しなくてはいけませんから」
オープンして以来、「ずっと順調でした」と振り返る若林さん。それは、8人の女性たちのチームワークと、並々ならぬ努力に裏付けされているからに違いありません。
会社(団体)名 | 有限会社花農場あわの |
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創業 | 1999年5月1日 |
設立 | 1998年8月20日 |
業務内容 | レストラン、ドライフラワー販売 |
20年ほど前からドライフラワーを生産・販売していて、ハーブを扱っていたので、ハーブを食に活かせないかと思ったのがきっかけです。都会の人に本当の野菜のおいしさと、田舎の心地よさを感じてほしいという思いでした。
レストランでのフランス料理とイタリア料理の研修、ハーブガーデンの植栽、ハーブコーディネーターの資格取得です。
家族が事業に反対していたので、自分たちが本気だということをわかってもらうことでした。起業してからは、接客の難しさとハーブガーデンの管理です。
一番の反対者だった家族に事業のプレゼンテーションを行えるほど現実的な計画を立てることができたこと。最終的には家族の協力を得られたこと。そして、自分たちの努力です。
粟野町による「ふるさとルネッサンス推進事業」の補助金を得て、レストランの建物を建てることができました。また、行政のアドバイスで、農業近代化資金から融資を得て、厨房施設資金や創業当時の運転資金にまわすことができました。
ドライフラワーの販売については、講習会、デパートや店舗などへ直接売り込みに歩きました。レストランについては、地元のテレビ局、ラジオ局、新聞社などに宣伝に行くことで、お客様に知ってもらえるよう努力しました。
信念を持つことと、協力してくださる方々やお客様など、関わる人たちに真心がどれだけ伝えられるかです。
一度来たお客様にリピーターになっていただくためには、レストランのメニューなどは、プロの味を出すことが大事です。そのためにも、最初からプロの信頼できるシェフに師事することを決めたのは正解でした。
当時の有限会社の資本金300万円を8人で、ほぼ均等割り(一人40万円弱)して集めました。
ハーブ販売所でもあり、レストランでもある「有限会社花農場あわの」です。
以前勤務していた建設会社で知り合った税理士の方です。
特にありませんが、県内のデパート5店舗へオリジナル商品(ドライフラワー、ブルーベリージャム)の販売が決まったことで販路が拡大したことは大きかったです。
他人に対しての気遣いや、心配りができるようになりました。視野が広がったことで心に余裕が生まれました。
周囲への気配りと、目配り。何よりも真心を持って仕事をすることです。
旅行と美術館めぐりです。日常から離れることでリフレッシュでき、豊かになれます。
起業は一日ではできません。気持ちをゆったり持って、長い時間をかけるつもりで始めなくては、すぐに力尽きてしまいます。結果を急がずに、大らかな気持ちで取り組むことが長続きするコツではないかと思います。