琵琶湖の固有種ニゴロブナの鮒ずしを復活させたい一心で、素人でありながら養殖を始めた大島正子さん。農地で養殖池をつくる自然を模した養殖が成功し、地元企業に注目されて起業へと結びつきました。
仕事の経験 |
結婚 | 子ども |
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生かした | していた | いた |
芸術大学卒業後、京都府でデザイン会社に勤務したが、農業を営んでいた父の死後、故郷の滋賀県へ戻り農業の後を継ぐ。農地にて採算の合うものづくりをと考え、1999年に琵琶湖の固有種ニゴロブナの養殖を始める。前例のない農地を活用した養殖池で、琵琶湖の自然に近い独自の養殖方法を研究。地方紙に掲載されたことをきっかけに地元企業の資金的後押しを得て、2007年に法人化。
年齢 | 西暦 | 主な活動 |
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37歳 | 1999年 |
京都府でデザイン会社に勤務していたが、父の死後、故郷の滋賀県へ家族と共に移住。農業を営む両親の後を継ぐ |
38歳 | 2000年 | 錦鯉、金魚、ニゴロブナ養殖実験開始 |
41歳 | 2003年 | 鮒ずしの加工開始 |
44歳 | 2006年 | 株式会社飯魚(いお)設立。代表取締役に就任 |
環境省の絶滅危惧種のレッドリストにも掲載されている琵琶湖の固有種ニゴロブナ。その養殖を独自の方法で成功させた大島正子さんは、養殖に関してまったくの素人だったというから驚かされます。
大島さんは滋賀県で生まれ育ちましたが、芸術大学を卒業してからは京都府にあるデザイン会社で仕事をしていました。広告やパンフレット、カタログなどを制作する日々が一転したのは、滋賀県で農業を営んでいた父親が亡くなったのがきっかけでした。3年ほど京都と滋賀を行き来した後、思い切って実家の農業を継ぐことを決意します。しかし、農業で利益を得るのは並々ならぬことでした。そんなとき、錦鯉のバイヤーをしていた知人から、「これだけ土地があるのだから、錦鯉を養殖してはどうか」と言われます。新潟で休耕田を利用して錦鯉の養殖をしている事例を知り、さっそく減反で畑にしていた土地の半分の面積5,000平方メートルを使って、3つの養殖池をつくりました。「農業は見込みがなかったので、養殖ならひょっとしたらいけるかもしれないと思ったんですね。最初は錦鯉、金魚、ニゴロブナを3つの池で分けて養殖を始めました。元々琵琶湖を干拓して作った農地なので、琵琶湖の水を養殖池に引きました。でも錦鯉は琵琶湖の水では水温が高過ぎたようで、うまく模様が出ませんでした。金魚はあまりにも薄利。そこで、琵琶湖の固有種のニゴロブナに可能性が残りました」
大島さんがニゴロブナの養殖に本腰を入れたのには、もうひとつ大きな理由がありました。それは、滋賀県の郷土の味「鮒ずし」への思いです。「この辺りでは、昔はどこの家でも鮒ずしを作っていました。それが、琵琶湖に外来種のブラックバスなどが増えて、原材料のニゴロブナが激減してしまったのです。稀少になった琵琶湖のニゴロブナは庶民の手には届きにくい値段です。京都に居た頃も実家に戻ると必ず鮒ずしを買って食べましたが、どれも原料のニゴロブナは輸入品や他県のもので、値段が高い割においしくありませんでした。どうしても昔食べた味を復活させたいと思うようになったのです」
その土地に合ったものを作る。つまり“適地適作”は、農業に従事していた頃から、大島さんにとっての理念でした。そしてここから戦いが始まります。実は、大島さんの養殖池は普通の養殖池とは違っていました。普通はコンクリートで造った池で、抗生物質などの薬品を使って養殖をしますが、大島さんの養殖池は、田んぼの土を掘って、そのまま土手にして池を造っています。「なるべく自然環境に近い条件を造りたかったのです。けれど前例がなかったので、自分で試行錯誤してやるしかなかった。使ったこともない重機を操作して土手を造りました。養殖の経験があれば、池はコンクリートで作るものと決まっています。今思えば、養殖の経験がないからこそできたんですね」
養殖についてはまったくの素人。まして水田の土を使った養殖池でニゴロブナを育てるデータはどこにもありません。「毎日何百匹と死んでしまって、死んだ稚魚を数えていました。けれど食べるものに薬を使うのは嫌だった。それは農業をやっていた時も同じでした」
できるだけ天然に近いニゴロブナを育てたかった大島さんは、琵琶湖の漁師にお願いして、天然のニゴロブナを入手することにもこだわりました。
そして5年目、「こうすれば成長する」ということがわかった瞬間が訪れます。「なかなか大きくなってくれなかった稚魚が、3年で鮒ずしにできるくらいの大きさ、20センチになりました。初めて自分で鮒ずしを作って近所に売りにまわったら、『おいしいからもっと欲しい』と言われたんです。でも、生産量が少なかったうえに、資金が底をついてしまったのです」
自己資金は使い果たし、ご主人からの援助や農地を売るなどして、すでに数千万円をつぎ込んでいました。「周囲の農家からは、田んぼや畑を売って何をやっているんだと思われていました。でも銀行にも行政にも組合にも行きましたが、前例がない事業にはどこも資金を援助してくれませんでした」
途方に暮れていたとき、吉報が舞い込みます。地方紙に大島さんの取組みが紹介され、それを見た地元の滋賀建機株式会社の会長、蔭山孝夫さんが事業化を後押ししてくれることになったのです。琵琶湖の在来種を守り、郷土の味を復活させたいという大島さんの情熱に応えてくれたのでした。そして2006年7月7日に、資本金1,000万円で「株式会社飯魚(いお)」が誕生します。
5年かけて見つけた独自の養殖法は、それほどの価値を持っていたとも言えます。琵琶湖にならって、養殖池に茂みをつくり、他の生物も共存させ、自然産卵でふ化させました。こうして育ったニゴロブナを琵琶湖の沖島で暮らす老齢の漁師に頼んで、今では無形文化財となっている千枚通しを使う昔ながらの方法で内臓を取り除きます。さらに、大島さん自ら一匹一匹丁寧に加工作業を施し、10キロずつ樽に漬けます。5年前に15樽から始めて、2008年は200樽を漬け込みました。「今年は“人に教える”ということに力を入れます」と言う大島さん。2009年は300樽の生産を予定しています。
昔食べた懐かしい郷土の味は引っ張りだこですが、大島さんは今でも度々飛び込み営業をするそうです。「料理屋さんに飛び込んだりもします。それが意外な方向に広がったりするんです」
販路を拡大したいという原動力になっているのは、「県内だけでなく他県にも琵琶湖産の本物の鮒ずしの味を知って欲しい」という思いです。「お金儲けのためだけでは続けられません。何のためにやるのかという自分への問いかけ。創設者は理念と信念がないと絶対に継続できない」と大島さんは断言します。その信念は、滋賀の伝統食文化である鮒ずしを復活させること。「今、うちで年間3トンのニゴロブナを水揚げできますが、鮒ずしは県内で約200トンの需要があります。180トンは外から来ているフナが原料で、琵琶湖の漁獲量は約20トン。うちの技術を伝えて、琵琶湖周辺に新たな産業としてこの事業が拡大することを望みます」おいしい鮒ずしが庶民の味になる日は、思ったほど遠くないのかもしれません。
会社(団体)名 | 株式会社飯魚(いお) |
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URL | http://iofunaya.blog110.fc2.com |
創業 | 2000年 |
設立 | 2006年7月7日 |
業務内容 | ニゴロブナの養殖、鮒ずしの加工、販売 |
父の死後、農業を継承したものの、経営は成り立っていませんでした。何か農地にて採算の合う「ものづくり」を…と模索しているなか、適地適作であり、琵琶湖の固有種であるニゴロブナを生産することを思い立ちました。その理由は、ニゴロブナは滋賀の伝統食文化である「鮒ずし」の原材料だったからです。しかし、市場は、他府県や海外からの輸入品で溢れていました。滋賀県を訪れた観光客に何よりも本物を味わってほしいという思いと、高級珍味となってしまった「鮒ずし」をもう一度、庶民の食品として次世代に育んでいってもらいたいという理念の下に、未だかつて前例のない事業に取り組むことを決意しました。
約5年間に渡るニゴロブナの養殖に関わる研究です。
ニゴロブナの養殖技術は確立されていなくて、独学しか方法がありませんでした。国家事業で40年前に農地として開拓された地で、養殖池をつくり、事業を行うというベンチャービジネスを周囲の農家や行政にもなかなか理解してもらえなかったことです。
資金的にもう限界というときに、ニゴロブナの養殖事業に興味を持って出資したいという企業が現れました。経営理念があることが大事で、何よりも、成功するまで続けることに尽きます。
夫の励ましと援助、事業を資金的に後押ししてくれた滋賀建機株式会社をはじめ、土地を貸してくれた農業者や、漁業者、パートの方など、関わってくれた方々の協力と支援がありました。
初めて自分が作った「鮒ずし」は、近所の方々に売りに回りました。滋賀には、お正月に鮒ずしを宴席で食べる習慣があるので、12月に1軒ずつ訪問し行商のようでした。しかし、生産量はわずかだったのですぐに完売してしまい、お客様から「おいしかったから、もっとほしい」と言ってもらえたものの、当時は品物が足りない状態でした。この声に応えなければと、何が何でも生産量を増やすことを決意しました。
理念をもつことです。理念がないと、経営がうまくいかないときに継続することができません。共同経営者がいる場合は、信頼関係を築くことが最も重要です。
先行事例がなかったので、特にありませんでした。
1,000万円。共同経営者となった企業が90%以上出資してくれました。
滋賀県蒲生郡安土町にある加工工場兼事務所と近くの養殖池。
共同経営者の滋賀建機株式会社に任せています。
2年目を迎えて本格的な販売活動を行い始めた現在が転機です。自分一人ではなく、従業員も雇うようになり、後継者を育てることも必要になってきました。
事業の全体像を把握し、“経営者として何をするべきか”ということが判断できるようになったことです。私は、経営者はすべてのことができないといけないと思っていましたし、それは今も変わりませんが、何もかも従業員よりも上手にできる必要はないと思います。だんだん仕事を従業員に任せられるようになりました。
いい加減な気持ちではやらないほうがいいと思います。利益だけが目的で起業すると、うまくいっているときはいいですが、苦しくなったときに乗り切ることができません。信念と理念が大事で、それを最後まで貫く覚悟が必要です。
自然観察。魚を触るのが好きなので、休みの日は家族で三重県などに釣りに行きます。
養殖の経験がなかったからこそ、既成概念にとらわれず取り組めたのだと思います。うまくいかなかったら気持ちを切り替えることも大事です。営業については、飛び込みで営業することもよくあります。例えば、料理店などに、鮒ずしを置いてくれませんか?と突然申し込みます。そうした出会いが、意外な方向に進み、販路を広げることにもつながっていきました。