製塩土器が発掘され、塩文化発祥の地とも言われる通詞島(つうじしま)で「天日古代塩」を製造・販売する小出史さんは、テレビのキャスターから転身した人物。かつて取材で出会った塩職人との縁(塩)が、大きなきっかけになったのです。
仕事の経験 |
結婚 | 子ども |
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生かした | していなかった | いなかった |
短大卒業後、松下電器産業株式会社に入社するが、5年後に退職。NHK熊本放送局でニュースキャスターを経験した後、熊本朝日放送に入社。アナウンサーのほか、記者、ディレクターとして活躍する。かつて取材で訪れたイルカウォッチングで知られた通詞島(つうじしま)を思い出してプライベートで訪島し、塩職人と再会。塩を広めてもらいたいと相談されたことをきっかけに、10年間勤務した会社を退職し、熊本市内に塩専門の実店舗「塩工房」を開業。オンラインショップの運営や百貨店などへの卸しも行っている。
年齢 | 西暦 | 主な活動 |
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20歳 | 1979年 |
短大卒業。松下電器産業株式会社に入社。熊本県内にある南九州営業所に勤務 |
25歳 | 1985年 | 松下電器産業株式会社を退職。NHK熊本放送局のニュース番組のキャスターに採用される |
29歳 | 1989年 | NHK熊本放送局を経て、熊本朝日放送(テレビ朝日系)に入社。少数精鋭の組織だったため、アナウンサー兼記者兼ディレクターとして奔走。海外取材も経験する |
38歳 | 1998年 | 熊本朝日放送を退職。ピースボートに参加し、3ヶ月間の世界一周の船旅へ。イギリスを出航し、キューバや内戦の爪跡が残るユーゴスラビアのサラエボなど、17カ国を巡る |
39歳 | 1999年 | 熊本朝日放送在職中に出会った通詞島の塩に魅せられ、アンテナショップとして実店舗「塩工房」をオープン |
42歳 | 2002年 | 有限会社ソルト・ファーム代表取締役に就任 |
48歳 | 2006年 | Webサイトでのネット販売をスタート |
テレビ放送局に勤務していた小出史さんは、結婚後もアナウンサー兼記者兼ディレクターとして、海外取材なども精力的にこなしていました。しかし、結婚から4年で離婚。それを決断するまでに、ほとほと元気を喪失し、何を見聞きしても感動しない、何を食べてもおいしいと思えないほど、精根尽き果ててしまったのです。「そんな時に、母がつくってくれたのが、いわしの塩焼き。それのおいしかったこと!こんなおいしいものがあるんだと久々に感動しました。母は、私が以前もらってきた通詞島(つうじしま)の塩を使ったからだと言いました」。
熊本市内から自動車で3時間も走ったところに、小さな島「通詞島」があります。古墳時代、製塩をしていたことがわかる土器が出土し、「塩文化発祥の地」とも言われている島です。小出さんは、かつてその島を取材し、塩職人の長岡秀則さんからつくった塩をお土産にもらって、母親にプレゼントしていたのでした。「母はめったに手に入らない高級な塩だと知り、大切なシーンで使おうと大事にしまい込んでいました。それが見つかって、私に振る舞ってくれたのです」。母親の手料理で、天草の自然豊かな海や島の人の温かさが急に蘇ってきた小出さんは、今度はプライベートで訪島。再会した長岡さんの言葉に心を揺り動かされ、これも縁(塩)だと、独立を決意しました。
「通詞島はイルカと人間が共存していたところで、現在でもイルカウォッチングのメッカになっています。取材で訪れた当時は、私も若かったですし、製塩よりもイルカに夢中でした。しかし、二度目の訪島では、島の人々の人柄や潮風、まぶしい海に囲まれて、ゆっくりとした時間を過ごす中で、自分は大切なことを見落としていたと気づいたんです」と、小出さん。製塩の現場に再度訪れ、慌ただしい取材では聞けなかった話を、職人の長岡さんからじっくりと聞きました。そして、塩は単なる調味料ではなく、生き物になくてはならない存在だと改めて知らされたのです。長岡さんは「塩分を摂りすぎてはいけないなど、とかく塩は悪者にされがちだが、海が豊かでなければ塩はつくれない。海を守るためには、川も山も守っていかなければいけない」。さらに、「俺たちは海を守り、その海の恩恵を受けて旨い塩をつくることしかできないから、この塩を広めてほしい」と、小出さんに相談したのでした。
塩の専売法が緩和され、日本の海水からつくった塩も堂々と販売できるようになっていました。タイミングをチャンスに変え、10年間勤めた放送局を退職。生まれ育った街に「天日古代塩」の直営店「塩工房」を立ち上げました。「古民家を借りたかったのですが、資金もありませんでしたから、家賃との折り合いがつかなかったんです。でも、伝統を感じさせるお店にしたいと、とにかく知恵を絞りました。義妹の実家の材木店から丸太をもらってきてテーブルにして、クロスをかけて仕上げたり、包装袋の題字を母に一枚一枚ていねいに書いてもらったり、もう家族総出の手づくりショップです」と、小出さん。お客さまをお店で待つだけなく、デパートなどで物産展が開かれると聞けば、東京や大阪など遠方でも積極的に出店しました。そして、はっぴを羽織って食品売り場などに営業活動を行い、知人の縁を生かして、大手デパートとの契約をつかんでいきました。「物産展は、渡航費もかかり赤字になることもあるので、最近は出店を控えていますが、最初は赤字でも、認知してもらって販路拡大につなげようと、積極的に外へ出て行きました」。
2002年には、有限会社ソルト・ファームを設立。一方で、ハーブソルトや天然にがり、「天日古代塩」を活用したうどんや醤油などの商品も開発しました。「一時期は健康ブームで『にがりバブル』『塩バブル』といえる追い風の時期もありました。でも、最近は他社も特色のある様々な種類の商品を出していますし、当社で扱っている商品は、ていねいに時間をかけて手づくりしているだけに、低価格ではなかなか提供できません。普段使いが難しい商品ですが、贈答品などで購入いただけるようブランド化したい」と、小出さんは考えています。
また、2006年にはオンラインショップを開設し、ショップや商品を卸すデパートに訪れたお客さましか購入できなかった商品が、全国に届けられるようになりました。小出さんを塩の道へと奮起させた長岡さんは、有限会社ソルト・ファームの会長として活動していましたが、新天地で新たに塩の研究をしたいと退任しました。そして、その情熱を継承した小出さんは、古来伝統の塩文化や美しい海を守るために、手塩にかけて今日も縁(塩)を紡いでいるのです。
会社(団体)名 | 有限会社ソルト・ファーム |
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URL | http://saltfarm.jp/ |
創業 | 1999年3月(アンテナショップ「塩工房」オープン) |
設立 | 2002年1月 |
業務内容 | 自然海塩「天日古代塩」の製造・販売・卸し |
テレビ放送局に勤めていた時、通詞島を取材しました。その島で製塩する塩職人の長岡秀則さんに話を聞き、お土産で塩をもらって帰り、母にプレゼントしました。しかし、母は特別な塩だからと、塩をしまい込んだままだったのです。それから数年後、離婚を経験した私は、すっかり元気をなくし、何を食べてもおいしさを感じられない毎日を過ごしていました。そんな時に母がふと通詞島の塩を思い出し、それを使って「いわしの塩焼き」をつくってくれたのです。そのおいしさに感動した私は、通詞島にプライベートで訪島し、長岡さんと再会。自然豊かでゆったりした時間の中で話しているうちに、元気を取り戻しました。そして「この塩を広めてもらえないか」と長岡さんから言われた言葉が忘れられず、私に元気を与えてくれた塩を多くの人にプレゼントしたいと、事業を引き継ぐ決断をしたのです。
まず、アンテナショップを立ち上げたのですが、オープン前の1週間はほとんど徹夜状態でした。新聞折り込み広告をつくる資金もなかったので、チラシをつくって配ったり、またピースボートで知り合った人がデパートに勤務していたので、お店づくりを手伝ってもらったりと、たくさんの方々に助けていただきました。私が事前に準備したことと言ったら、体力と気力。このふたつでしょうか。
資金があまりなかったので、いかに低資金で古民家のような雰囲気のある内外装にして、多くの方にお店を知ってもらうか、ということに知恵を絞りました。また、当初は販売利益を考えず、安く販売してしまい採算が合わない、ということもありました。それに気づいてからは卸し販売を強化するなど対策を練っていきましたが、最初の2年くらいは、売り上げがなかなか立たず、本当に厳しかったです。
勇気と情熱とやる気があったからでしょうか。私を奮起させてくれた塩職人の長岡秀則さんは、人間的にも生き方も魅力的な方で、「海が汚れたら、川も山も汚れ、動物は生きていけない」と海を守ることに使命感を持つ人でした。そんな彼の情熱に私が引き寄せられて勇気をもらい、多くの人との縁に支えられてここまでこられたのだと思います。長岡さんは当社の会長だったのですが、その後、塩の研究をもっと深めたいと当社から退きました。
母は看板娘として店番をしてくれますし、のれんや商品パッケージにも使った「塩」の旧字「鹽」を手書きしてくれました。父も店頭にこそ立ちませんが、母と同じく、オリジナルの熨斗(のし)をつくる際に手書きをしてもらいました。また、弟も手伝いを始め、今では営業などを中心に行っています。友人もクチコミで広げてくれました。本当に人の協力なくしては、今はあり得なかったと思っています。
お店に来ていただいたお客さまが最初ですが、店で待っているだけでは商品をアピールできないので、デパートなどで開催される県内外の物産展に出店していきました。また、出店中にはデパートの食品売り場を回って営業活動をするなど、縁(塩)をつないでいきました。
自分の商品や事業に対して、冷や水をかけても冷めない情熱と愛情を持っているかどうか、は非常に重要です。情熱と愛情があれば、つらい時でも乗り越えていくことができます。私は「縁=塩」がキーワードですが、本当に縁は大事。人からの紹介や協力によって、お店をつくったり、販路を広げたりと成長させていただいています。
「塩」を単なる調味料という位置づけではなく、熊本県の豊かな海を象徴する特産品に押し上げたくて、県や市の物産振興協会に加入し、情報を得ていきました。また、熊本県は台風も多く、製塩所が被害を受けることもあります。そこで、工場の修繕費としてストックしておくために、熊本商工会議所に資金の相談をさせていただきました。
貯金と退職金をかき集めてつくった約150万円(生活費別)です。そのほとんどがお店の物件を借りるための敷金・礼金などの物件取得費として消えてしまったので、お店の内外装はほとんど手づくりしています。運転資金も用意していなかったため、近所のお祭りが開催されると、出店させてもらって売り上げを上げるなど、最初は自転車操業でした。
熊本市内にあるオフィス兼ショップの「塩工房」を拠点にして、天草市の通詞島にある製塩所にも出向いています。製塩所は熊本市内から自動車で3時間近くかかるため、頻繁に通えないのがネックですが、この場所だからこそつくることができる自然塩ですから、往復6時間、がんばって車を走らせています。
ある会社で経理部長として活動し、定年退職をした人に週に2、3回来てもらい、経理を見てもらっています。現在は、その方からの紹介で、いつもいいアドバイスをくれる税理士に経理を細かくチェックしてもらっています。経理を見てもらうようになって、お金の出し入れがしっかり管理できるようになりました。
今がその転機と言えるかもしれません。起業時は、塩の専売法が緩和されたばかりでしたし、手づくりの塩は珍しかったので、お客さまに納得してもらえれば買っていただくことができました。しかし、最近は塩の種類もかなり増え、どう特色を打ち出すべきかと思案中です。また、食用塩公正競争規約の施行によって、2年後からは「天日古代塩」という名称が使用できないこともネックになりますので、今が踏ん張り時だと言えますね。
生産者の気持ちがわかるようになったことです。塩づくりは農業に似ているのですが、天候にも左右されますし、大変な作業です。製塩をするスタッフを見て、そういった生産者の気持ちを理解していたつもりですが、彼らの喜びや苦労を一緒に感じていくうちに、もっと気持ちが寄り添えるようになりました。お客さまに商品の良さを伝える言葉選びにも影響し、生産者の気持ちが込められるようになりました。
縁はお金も幸せも運んでくる素晴らしいものです。中には人脈を得ようとやっきになったり、計算をする人がいますが、そんなものではありません。私の店はひとり暮らしのおばあちゃんが私の母との話を楽しみに毎日来てくださったりと、いつも誰かがいる集いの場です。それを「一銭にもならん人がよう集まって」と笑う人もいますが、まったくそうではありません。そうやってうちの店で和んでくださった方の縁が縁を呼んでくださるのです。どうぞ人を大切にして、儲けることばかりに走らないでください。幸せを運んでくれるのは、人なのですから。
朗読家を目指して修業中なのですが、舞台や学校で公演させてもらう時は気分転換になりますね。また、3年前から始めたシャンソンを歌う時もそうです。
起業はビジネスを立ち上げたら終わりではなく、始まり。継続していくことが大切ですから、セレブな生活をしたいといった見栄では続けられませんし、しっかりした資金繰りをしないと破綻します。ビジネスを始める際は、できるだけ低資金で始めてください。借り入れをすると、100万円も200万円も同じ感覚になってしまい、あるだけ使ってしまいがちですから、お金に頼らず、知恵をたくさん絞って使うことです。ビジネスでは不測の事態もありますし、仕入れがある場合は、お金が入るより出て行くほうが先ですから、運転資金もしっかり確保しておいてくださいね。