はじめは福祉の仕事を希望していた市原慶子さん、1300年の歴史がある美濃和紙の存続に貢献することになりました。決意のきっかけは意外にも留学先アメリカの人たちの声でした。
仕事の経験 |
結婚 | 子ども |
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生かさなかった | していなかった | いなかった |
アメリカの大学院で福祉の勉強をし、帰国後も福祉職に就く。が、学んできたことと日本の福祉の遅れとのギャップに悩み、退職。アメリカで美濃和紙の存続について意見されたことを思い出し、和紙の研究開発に取り組む。1993年TJPコーポレーション設立。創造法認定を受ける。宮内庁に献上するための「行啓アルバム」装丁を制作、各地で和紙ドレス展開催。
年齢 | 西暦 | 主な活動 |
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22歳 | 1977年 |
大学卒業。福祉施設に就職 |
32歳 | 1987年 | 退職ロータリー財団の奨学生としてアメリカに留学 |
34歳 | 1988年 | 帰国 |
35歳 | 1989年 | 知的障害者のための授産所を障害者の親と共に設立、共に働く |
39歳 | 1993年 | 有限会社ティジェイピィ(TJP)コーポレーションを設立 |
42歳 | 1996年 | “幻相彩流染”を考案 |
45歳 | 1999年 | “創造法”の認定を受ける。 和紙の弱点を克服するための環境に配慮した加工剤の開発が認められる |
46歳 | 2000年 | 岐阜県より宮内庁に献上する「行啓アルバム」の装丁を”幻相彩流染“で〈長良川〉を制作 |
51歳 | 2005年 | 神戸ファッション美術館で「市原慶子美濃和紙ドレス展」を開催 |
52歳 | 2006年 | 岐阜アクティブGにて市原慶子美濃和紙創作展「NEO.・和感」を開催。岐阜県芸術・文化奨励賞受賞 |
53歳 | 2007年 | 韓国にて「美濃和紙使いの布 ドレス展」とファションショーを開催。岐阜県より宮内庁に献上する「行幸アルバム」の装丁を“幻相彩流染”にて(緑の風)を制作 |
アメリカで福祉の勉強をしていた市原慶子さん、将来は福祉職に就こうと考えていました。留学中、日本の文化について講演する機会がありました。その時、身近な文化として地元の美濃和紙について話したのです。すると聴衆から「1300年の歴史がある和紙があるなんて素晴らしい。でもその伝統を受け継ぐ後継者がいないとは残念だ」、大学の学長からは「美濃和紙を守ることは大事なことだ、帰国して紙漉職人になりなさい」とまで言われました。そんなこと言われても福祉の職につきたい、と市原さんは聞き流していました。さて帰国後、念願かなって福祉の仕事を始めますが、学んできたものは最先端のアメリカの福祉、日本の福祉現場には受け入れてもらえません。思うように進まないいらだちが市原さんの心中に渦巻いていきます。そのような折、あのアメリカでの人々の声が思い出されました。伝統ある和紙を守ること、和紙で新しい物を作り社会に貢献できないかと閃きます。
1993年、市原さんはTJBコーポレーションを設立、和紙染色技術の研究と小物をつくる会社を始めました。環境にやさしい和紙の良さを残しつつ、現代の人にも扱いやすい、また、若い人へもアピールできる物を提案していくことで和紙産業を盛り返せないかと考えます。しかし、1300年も続く伝統ある世界、業界は男性中心、市原さんへの風当たりは強いものでした。「若い女の子に何ができる」とよく言われました。かえってそのことが市原さんの密かな闘志に火をつけます。「女だから、若いから、ということでくじけたくない」。また、市原さんは体の半身に障害がありますが、障害があってもくじけない姿が同じような人たちへの励みにもなればとの思いもありました。アメリカではいいことをすればみんなが応援してくれた、でもここは美濃、厳しい世界、自分の考えは甘かったなあ、と感じる日々でした。周囲の視線にも負けない市原さん、さぞかし気丈な方かと思いきや、実は人に言い返すこともあまりできず、すぐにくじけてしまうタイプなのだとか。子どもの頃からおとなしかったそうですが以前の職場の上司からは「自分の信念を持っている人だ」と言われたそうです。その心の強さが市原さんの持ち味の一つなのでしょう。
1999年に和紙の弱点を克服するための加工剤を開発、また独自性が実を結び、現在では美濃和紙のデザイナーとして、和紙のウエディングドレスや花器などを発表している市原さん。アトピー性皮膚炎の人のための衣類研究中でもあります。「やるべきことはたくさんあるのですが、私は素材としての和紙を提供していきたいと考えています。そして和紙のすばらしさを世界へ発信していけたらと思います。また、願わくば和紙の製品作業に障害のある人、介護で外に出られない人、引きこもりの人たちなどが社会と接点を持つために関われる仕事を提供したいと考えています。」今後、市原さんが長年学んできた福祉が和紙産業に生かされていく日も近いのではないでしょうか。
会社(団体)名 | 有限会社TJPコーポレーション |
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設立 | 1993年5月28日 |
業務内容 | 美濃和紙によるウエディングドレス、装飾小物製造、販売 |
2つの夢の実現に向けて起業しました。その夢のひとつは、私たちの仕事を媒体に、新しいタイプのネットワークを作りハンディーがあっても積極的に生きられる社会作りに寄与できるように。もうひとつは、1300年の伝統ある美濃紙をさらに発展させ現代ニーズに合った和紙にデザインすることです。
定款の作製,登記など全て自分でやりました。(司法書士さんにはお願いしませんでした。)それと最初に売り出す商品の企画だけはしておきました。
起業時の苦労は、たいしたことはありません。その時は、夢が一杯ですから。それよりも大変なのは、会社を起こしてからです。いかに継続していくか毎日立ちはだかってくる壁を乗り越えて志を胸に、歯を食いしばり頑張っていく気力を持ち続けることです。
傍目から見たら私の起業は、成功のように見えます。マスコミにも取り上げられ、県や市からの支援もありました。でも今でも自分の起業は正しかったのかどうか考えることがあります。
周りの者は、皆、賛成も反対もしませんでしたが、不安な眼差しで見ていたと思います。家族は、不安ながらも一生懸命動き回っている私を気遣い応援してくれました。それは、起業を志した時から今も変わることはありません。
最初に私の美濃和紙のウエデングドレスをお買い上げいただいたのは、私が出演したテレビを見た方で、自分の娘が嫁ぐ時には、他人とは違うオリジナルのドレスを着せたいと思われていたそうです。書道家でもあり、美濃和紙の素晴らしさをご存知でした。とても気に入っていただき8年後、下の娘さんのウエデイングドレスも作らせていただきました。
起業するときには、資金、事業計画、スタッフ等々準備することは多々ありますが、一番大切なことは、自分自身の“志”だと思います。
資金面で困っていたとき、岐阜市の融資制度を活用させていただき、研究開発を進めることができました。その時のおかげで今が有るといっても過言ではありません。
起業する前に貯めた貯金です。先の見通しの立たない私に融資してくれる銀行もなく、収入がなくてもしばらくは会社が存続できるだけの資金を持っての起業でした。
岐阜市内の親戚の家に間借りして起業しましたが、研究開発や物づくりの拠点になったのは美濃市内の自宅です。その後、美濃市内に商品、作品展示、マスコミ対応のための「ギャラリー“みの紙舞”」を開きました。
会社を設立する前に経理面などを見ていただく会計事務所(税理士、社会保険労務士、弁護士)と契約しました。また必要に応じて、友人の紹介してくれた弁理士の方に相談しています。
特別な会社にするという思いはありませんでしたが和紙の加工法で“創造法”(新規性のある技術)の認定を受け、あっという間にベンチャー企業と呼ばれるように。伝統工芸の世界で“創造法”に認定されたのは、弊社が初めてでした。そのことでマスコミにもより一層取り上げられるようになりました。
分かりませんが、志を曲げないこと、絶対にあきらめない事を忘れず、ひたむきに頑張り続けてきたことで少し強い自分になったと思います。
勢いに乗って起業することは案外容易いことです。でも自分の起こした会社に責任を持ち、苦難を乗り越えていく事はとても大変です。一攫千金を夢見て起業というのはいかがなものかと思います。よくよく考えて起業してください。
経営上の悩みや対人関係の悩みは尽きることはありません。そんな時、経営者は孤独なものです。誰にも打ち明けることが出来ず一人で解決しなければならないのです。そんな時私は、ひたすら自分の気持ちを文章にします。書き終わる頃には気持ちの整理がついています。
私たちの研究開発した美濃和紙の商品は、マスコミに取り上げられ海外でも、認められるようになってきました。私は傍目から見たら女性起業家として成功しているように見えるかもしれませんが、努力を積み重ねた結果、というものではなく、気がついたら商品という形になっていました。仕事の真価が問われるのはこれからでしょう。ここまで投資した開発資金やお世話になった方々に報いていくことも私に課せられた仕事と思っています。