都会にはない魅力を求め、さまざまなジャンルの人が集う「工房からっぽ」。女性の独立に対して冷ややかだった二十数年前、宇野淳子さんの歩んできた道は、平坦ではありませんでした。
仕事の経験 |
結婚 | 子ども |
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生かさなかった | していなかった | いた |
母子家庭で子ども2人を大学まで出すには会社勤務では足りない、自分のやりたい事でチャレンジしてみたいと、資金も知識もないままに情熱と工夫で草木染作家として「工房からっぽ」をオープン。その後併設した「茶房からっぽ」「農園」を含め、活動場所は多岐に渡る。2002年に娘のりかさんを代表理事に「企業組合からっぽ くさの農園」として再編成。取り巻く自然や宇野さんの生き方のファンがたくさん集っている。
年齢 | 西暦 | 主な活動 |
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39歳 | 1980年 |
女手1つで子ども2人を育て上げる為、勤務していた企業を退職 |
44歳 | 1985年 | カルチャー教室運営の仕事を経て、工房をもつ決意 |
45歳 | 1986年 | 草木染工房として「工房からっぽ」を創立 |
46歳 | 1987年 | 喫茶・軽食コーナーを併設。会員向けの通信「からっぽ通信」の発行開始 |
50歳 | 1991年 | 作品展示室オープン |
61歳 | 2002年 | 農園部門を併設、「企業組合からっぽ くさの農園」設立 |
母子家庭だった宇野さんは、39歳の時に勤めていた企業を辞めました。当時の企業は男性社会で今のように女性の管理職もなく可能性が限られていました。子ども二人を大学まで出すには自分で場を作り出すしかないと考えた時、「起業」を思いついたといいます。「起業したら必ず成功するとか収入が上がる保障はありませんが、自分でやれるだけやって足りないぶんには納得できますから」と。女性が独立することに周囲は冷ややか、起業について勉強する場も知らず、生活がかかっているので時間もない…という状態で踏み出した第一歩は、まさに「勤務先を辞めること」だったのです。
まずは小さなカルチャー教室を運営しながら、田舎に草木染の工房を持つ決心をした宇野さん。ふさわしい場所として彼女が選んだのは、築100年以上経つ廃屋でした。
廃屋で工房を始めるには大幅な改修が必要でした。資金のなかった宇野さんは、徹底的にお金をかけない工夫をしました。捨ててある物を拾いに行く、落ちている曲がり釘を延ばして使う、床板もご近所からいただく…そして1986年「工房からっぽ」オープン、宇野さんが45歳の時のことでした。
初めは自分の染色のために作った工房でしたが、当時「女性が田舎の廃屋を直して」という生き方は珍しく、すぐにマスコミが動き始め、見学の方もたくさん訪れるようになりました。「来てくださる方がくつろげる場所にしよう」「ファンになっていただこう」と思い立ち、自ら畑で育てた野菜や山菜を取り入れた喫茶・食堂コーナーを併設。また、2ヶ月に1度「からっぽ通信」を発行、まわりの自然の状況や自分の思いを送り続けました。その結果「どうせ買うなら宇野さんから」という関係性が作られてきたそうです。
自然志向が徐々に高まるにつれ活躍の場所も増え、セミナー講師や自治体の依頼で町おこしに一役買うこともある宇野さんと「からっぽ」でしたが、2002年に大きな変化がありました。独立の準備を進めていた娘のりかさんが幼子二人とUターン、農園を始めたのです。キクイモや野菜の栽培をしながら、「茶房からっぽ」で薬膳を取り入れたメニュー開発をしたりキクイモ加工品を研究。そして農園経営を本格的にやっていく為に法人化が必要になった際、“企業組合”を選択し、「からっぽ」をその中に組み込む形にしたのです。企業組合を選択したのは、何人か一緒に農園をやりたい人がいたことと出資金が少なくてすむという理由からでしたが、関わっている省庁がよく面倒をみてくれ、良い手法だったと感じているそうです。
「人と同じことができない性格なんです。今までの二十数年の生活をふまえて、また何か新しいことを絶対に始めます」と元気に語る宇野さんは、とても60代とは思えない若々しいバイタリティに溢れていました。
会社(団体)名 | 工房からっぽ |
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URL | http://www.karappo.co.jp/ |
創業 | 1986年2月1日 |
業務内容 | キクイモの生産及び加工品販売、草木染工房、喫茶、食堂など |
当時、女性の雇用条件は悪く、母子家庭で二人の子どもを育てあげるだけの収入を得る場所は少ない環境でした。与えられる場所がないならば自分でそれを生み出すしかないと思った時、起業という方法を思いつきました。起業して成功するという保障はありませんが、自分の力でやれるだけやって収入が足りなければ、納得できますから。
とにかく、勤務先をやめるという事が準備の第一歩でした。女性が独立して何かを始めるなどということに対して冷ややかな目線しかない時代にあって、起業するために勉強する場所を知る術もなく、まずは当ってくだけろという気持ちでした。
資金を持たない出発でしたので、運転資金不足で企画している半分も実行に移せないことが残念でした。軌道に乗るまでの間、子どもたちにかかる費用さえ不足していました。
そこで、徹底的にお金をかけない工夫をしました。
思ったことは速やかに実行してみる、ということができたからでしょう。その情熱があったからこそ、たくさんの協力を得られたのだと思います。「こういう条件だからできない」ではなく、「まず行動に移してみる」ことで、次に進めます。
大学に入学したばかりの娘と高校3年生の息子、80歳を越した母親と暮らしていました。店の手伝いなどをさせることはほとんどありませんでしたが、私が仕事をやりやすい状況を保つという点で、非常に協力してくれました。
その当時「女性が廃屋を改修して…」というのは珍しく、すぐにマスコミが動き始め、たくさん見学の方がいらっしゃいました。来てくださる方がくつろげる場所として存在したかったので、作品を販売することより、まず「ここを好きになってもらう」と言う事を目標にしました。ここのものだから買いたい、ここの行事だから参加したいと思ってもらえるファンづくりに気を配り、そのために「からっぽ通信」を2ヶ月に一度発行して、まわりの自然の状況や自分の思いを送り続けました。
利益を得るために自分のライフスタイルを変えるようなことはしたくなかったので、どのような局面に出会っても自分を変えることがないように心がけることで、自分の仕事に個性を持たせました。自分を見失って変えてしまうことと“成長”は違います。
相談先はありません。すべて自分で考え実行してきました。
情報は、メディア・本などから学び、すべて独学です。
場所を確保する為に使った3万円だけです。
その後2〜3ヶ月経ってから、母子家庭向けの“母子福祉事業資金”で50万円の融資を受けました。
広島市安佐北区安佐町にある工房。
持っていません。税金の申告などもすべて自分でやりました。
娘を代表理事とする企業組合からっぽくさの農園を設立、法人化。その中へ「工房からっぽ」を入れました。
世の中の動向に関心を持てるようになったこと。
自分の資質を把握すること。これをしっかり見極めないとうまくいきません。夢を現実にするには、漠然とした「やりたいな」ではなく、しっかり把握する必要があります。事業者に向いているかどうか、という段階からよく見極めましょう。
意識的に気分を転換させようと思ったことはありません。大変なときも楽しいときも、その時、その時の気持ちを大切にしています。
なぜ自分が起業したいのか自分自身を冷静に分析してみること、どうしてもやりたい事であるかどうかをあらゆる角度からチェックしてみることが、まずやらなければならないことだと思います。
起業という夢が現実として動き始めた途端、すべての動きが勤め人とは違ってきますから、よほどの信念がなければ継続が不可能となってきます。